一条天神通から一条通を少し西に行くと「大将軍八神社」がある。



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大将軍とは、陰陽道にいう方位や吉凶を占う星神天大将軍で、桓武天皇が平安京遷都に際し、王城鎮護のために奈良から勧請した古社で、方除けの神として信仰されている。

平安遷都にあたり、鬼門と並び災厄をもたらすという「天門」である北西に「大将軍堂」が創建された。

方位の吉凶は国家の行事から庶民の生活にも関わり、凶(鬼門)の方角を避けるために「方除けの神社」や「方違え(かたたがえ)」などが行われた。

大将軍堂は、江戸時代に暦神八将軍を祀り、さらに素戔嗚尊等とその御子神八神を集合し、大将軍八神社と呼ばれるようになった。



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大将軍八神社の駒札によると、

『当社は、平安建都の際に都城の方除(ほうよけ)守護神として造営されたのが始まりとされ、当初は大将軍堂と称したが、

江戸時代初期になって大将軍社と改められ、更に大将軍八神社となって現在に至っている。

大将軍とは、陰陽道にいう星神天大将軍で、方位をつかさどる神である。

このため、建築・移動・旅行などに関し、方除け、厄除けの神として世間の崇敬を集め、その時々の権力者達も当社を厚遇したといわれる。

当社には、平安時代中期から末期にかけての大将軍信仰高潮期に奉製されたと思われる「神像」百余体が所蔵されている。

このうち、武装像、束帯像、童子像合わせて八十体が昭和47年(1972)に重要文化財に指定された。

いずれの像も、独特の表情、装束で異彩を放っており、興味深い。また、陰陽道に基づく、古天文暦道資料(府指定文化財)も蔵されている。』

                    出典:【大将軍八神社の駒札】より



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大将軍八神社畧記によれば、

『平安京御造二際し桓武天皇は陰陽道を重く用いられ都を方位の厄災から守護する為内裏裏の北西角の大門に当るこの地に道教の星神を祀る大将軍堂を建立された。

以来朝野の崇敬を篤く受け全国的に大将軍信仰は広まる事となった。

中世応仁の乱後は神社として復興し江戸時代に入ると大将軍はそれ迄の星の大将としての妙見(北極星)信仰から太白星(金星)に移りさらに歴神(八将神)と習合して社名も大将軍八神宮と称した。

明治の改正では陰陽道等は廃されたため御祭神は素戔嗚尊を主神に御子神八神を祀る神社となった。

社殿は天文年間の旧建物を昭和の初めに八棟権現造の現社殿に造替した。

方徳殿に立体曼荼羅様に祀られる大将軍像は道教密教神道の混淆した独特の神像で国の重要文化財に指定されている。

御神徳 大将軍は建築をはじめ人事一般方位に関わる全ての厄災を解除され八方開運にみちびく方除・厄除の御霊験あらたかな神である。

御例祭 十月第三日曜日に神幸祭が斎行され大神輿ずいき神輿等が巡行する。』

                    出典:【大将軍八神社畧記】より