西院の周辺には、「淳和院」があった。



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四条通から春日通り(佐井通り)に曲がる手前の建物の辺り一帯が「淳和院」の跡である。

淳和院跡の南東角にはJoshinが店舗を構えて、そのビルの東側に、淳和院跡の説明プレートが埋め込まれている。

淳和院は第53代淳和天皇が退位後に、皇太后の正子内親王と7年間を過ごした所である。

淳和院は四条通の北、佐井通の東にあり、南北516m・東西252mで、四条通から北には三条通の手前一筋目まで、西は佐井通から西大路通を超えて一つ目の筋西土居通までの広大な敷地を有していた。

淳和院の説明文によれば、

『淳和院は西院ともよばれ、現在の地名のもとになっている。

淳和院の位置は、四条大路(現在の四条通)の北、道祖大路(さいおおじ:現在の佐井通)の東で、大正時代までこの北方にあった通称「飯(いい)の山」が、

淳和院にあった池の中島であったとする説に従えば、南北516m、東西252mの広大な敷地を占めていたことになる。

淳和天皇は、833(天長10)年に位を仁明天皇に譲り、上皇となって840(永和7)年に亡くなるまで、この院で過ごされた。

淳和上皇が亡くなった後、皇后正子がこの院を寺とし、以後は仏教道場として使用された。

「日本三大実録」によると、874(貞観16)年4月19日夜半、淳和院から出火、火の勢いは激しく、内裏(現在の千本丸太町の北方)にまで火の粉が飛んだと記されている。

その後、淳和院は再建されたが、規模や廃絶した時期については明らかではない。

当ビル建設前の平成4~5年にかけて発掘調査が行われ、南北17m・東西10mもある大規模な建物をはじめとする掘立柱建物跡群、四条大路や道祖大路の側溝、門跡などがみつかっている。

遺物としては平安時代の瓦が大量に出土したほか、

土師器(はじき)・須恵器(すえき)・緑釉(りょくゆう)陶器・灰釉(かいゆう)陶器などの日常品や、中国から輸入された当時の貴重品である壺の破片などがある。

また銅の鋳物の滓(かす)、鋳型の破片、未製品の釘、家具などに使用する金具などが多数出土しており、付近には金物を制作する工房が存在した可能性もある。

今回の発掘調査によって淳和院の西南の一角が明らかとなり、平安時代前期の天皇家の後院を知る上で貴重な成果を得ることができた。』

                    出典:【淳和院跡の説明板】より



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承和7年(840)に淳和上皇が亡くなると、皇后正子はこの院を寺とし、淳和上皇の遺児。恒貞親王が皇太子を廃され、ここに幽因されると、親子共々仏道修行に専念をする。

貞観16年(874)に焼失するが再建され、尼寺として再興されている。

淳和院が廃絶した時季は定かではないが、おそらくは応仁の乱で再び焼失し、それ以後の混乱により廃寺となったのではないかと推定されている。

今では、その跡を偲ぶよすがは何も残っておらず、そんな建物があったとは想像だに出来ないほどの変りようである。

春日神社の境内に淳和院の礎石が残っており、これが淳和院の名残を留める唯ひとつの記である。