宇治上神社から早蕨の古蹟を廻り、宇治川へ続く道に宇治神社がある。

もともとは宇治上神社と合わせて、宇治離宮明神と呼ばれ、延喜式に山城国宇治に宇治神社二座ありと記されている。

この神社が、宇治上神社の対をなす、宇治下神社である。



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宇治神社の祭神は、15代応神天皇の皇子「菟道稚郎子命」(うじのわきいらつこのみこと)であり、

この辺りは応神天皇の桐原日桁宮跡であり、菟道稚郎子の住まいがあった処とも云われている。

本殿は鎌倉時代の初期に建てられたもので、三間社流造、桧皮葺となっている。

この社は宇治の氏神で、菟道稚郎子皇子が幼い頃から天与があり学問に優れ、我が国最初の文教の始祖と崇められ、

受験合格の神様として、その季節になるとお参りに訪れる人は後を絶たない。

                    参照:【宇治神社、御由緒の駒札】より



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宇治川の右岸から宇治神社に参ると、一の鳥居をくぐると最初に見えるのが桐原殿の建物である。

(ちなみに本殿に参る鳥居が二の鳥居である)

ここは人の使う拝殿で、桐原の名は応神天皇の離宮の名からとられている。

菟道稚郎子命が悲劇の皇子と云われるのは、皇位継承で父の応神天皇は菟道稚郎子を天皇にしようとするが、

皇子は兄の大鶴鷯命(おおささぎのみこと)を差し置いて天位につくことは出来ないと兄に譲ったが・・・

お互いに譲り合った末に、菟道稚郎子が自らの死をもってそれに節目をつけたのである。

即位した兄の仁徳天皇は、菟道稚郎子の住まい跡に祠を設け、その御霊を祀ったのが宇治神社の始まりと云われている。

                    参照:【宇治神社、御由緒の駒札】より