京阪宇治線の宇治駅から、宇治川に沿って南東に10分ほど、またJR宇治駅からは20分ほど歩くと、世界遺産の「宇治上神社」がある。



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鳥居を潜り、その先には宇治上神社の小さい山門が見える。山門の手前の道を左に行くとさわらびの小道で、総角の古蹟へと続く。

ここは、紫式部が源氏物語の宇治十帖で八の宮が住まいした山荘があったと云っている処である。



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宇治上神社の起源ははっきりしないが、近くの宇治神社と合わせ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていた。

平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり、その後、近在住民の信仰を集めた。

拝殿は、鎌倉時代の始めに宇治離宮を移したものと云われ、現存する最古の拝殿である。

神の住まう本殿に対し、人が使う拝殿は当時の住宅様式で造られることが多く、切妻造の入母屋で、縋破風の屋根を持つ寝殿造となっていて、当時の住宅の様がよく表れている。

宇治上神社の祭神は、悲運の皇子、莵道稚郎子(うじのわけいらつこ)の他、父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っている。

本殿は、平安時代後期に造られた日本最古の神社建築である。

内殿に三社が並んで建っており、左に仁徳天皇、中に応神天皇、右に莵道稚郎子が祀られている。

内殿三社は、一間社流造の桧皮葺であり、その三社を桁行五間、梁行三間の流造、桧皮葺の覆屋で囲った珍しい建物になっている。

外からは、この覆屋しか見ることが出来ないのである。



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宇治上神社は、明治維新までは隣接する宇治神社と一体で、それぞれ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていました。

祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子・莵道稚郎子(うじのわけいらつこ)のほか、父の応神天皇と兄に仁徳天皇を祀っています。

宇治上神社の創建は古くさかのぼりますが、平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり、その後、近在住民の崇敬を集めて、社殿が維持されてきました。

本殿は、正面一間の流造の内殿3棟を並列させ、それを流造の覆屋で覆った特殊な形式となっています。

建立年代については、蟇股の意匠及び組物などの細部の特徴から平安時代の後期に造営されたものとみられ、現存する神社本殿としては最古の建築です。

また拝殿は鎌倉時代の初めに建てられたもので、現存する最古の拝殿です。

意匠的には切妻造の母屋の左右に庇をつけた形であり、屋根はその部分が縋破風(すがるはふ)となっていることなど住宅風となっている点に特色がみられます。

神のための本殿に対し、人の使う拝殿には住宅建築の様式が採用されることが多く、

ここでは、拝殿が初めて建てられた頃の住宅建築の様式である寝殿造の軽快な手法が、鎌倉時代の債権にも受け継がれたと考えられます。

本殿の後方は広大な森林が広がっており、こうした環境は干渉地帯の一部となっています。

              参照:【宇治上神社及び古都京都文化財の説明文】より