千利休が開いた茶の湯が三つの流派に分かれるのだが、その本流を継ぐのが「表千家」である。



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表千家は千利休の茶の湯を継ぐ本流であり、その象徴である「不審庵」を守り継いでいる。

「不審庵」の名は、「不審花開今日春(いぶかし はなひらく こんにちのはる)」の禅語から採られたといわれ、

「春になると何時も花が開くのだが、これは大自然のなせる業であり、人智の計り知れないことである」との意で、茶の湯の奥深さを茶室の名に付けたものだという。

ちなみに裏千家の茶室は「今日庵」と名付けられている。



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表千家は、千家3代の宗旦の三男・宗佐が継ぎ、4代目の千家当主となる。

宗佐は、紀州初代藩主・徳川頼宜の招きで紀州家に入り、その後、明治維新まで紀州徳川の茶坊主として紀州家に仕えている。

また江戸中期には、豪商三井家などを門人として受け入れ、広く茶道を広めている。

この頃に家元制を導入し、それぞれの地位により免状を発行し、広く門弟を集めたのである。

しかしこのことが本来の茶の道を冒涜したと非難されることになる。

明治になると茶の湯は昔の遺物として顧みられなくなり危機を迎えるが、三井財閥の支援や家元制度などで乗り越えている。

何の習い事でも同じだが、入門から家元師範になるまでは、努力もさることながら金の力も大きいのである。