| 西陣という石碑が二つある。どちらが先に建てられたのか・・・ |
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| 一つは、京都考古資料館の前に立つ「西陣」の石碑。碑文には、 |
| 『京都帝国大学総長医学博士荒木寅三郎閣下篆額。古来朝廷には大蔵省に織部司ありて、綾錦を織り及び染物の事を掌れる。 |
| 後、其業民間に移り織工等、大舎人座を組織して高機を構へ大舎人織手師と呼ばる。 |
| 応仁の乱に東西の両軍、京都に割拠して攻戦11年に及び、其間、西軍は五辻通大宮東なる山名宗全の邸を中心として、堀川以西一条以北の辺に駐屯せしより、此一画を呼んで西陣といふ。 |
| 是時に当りて戦乱相次ぎ、京都の織工多く難を避けて、和泉堺の海浜に居住せり。 |
| 堺は乱中、幕府の遣明船、発着の港となり、貿易殷賑を極めたり。 |
| 乱、平ぎし後、京都の織工帰りて、西陣の地、白雲村に居り明の織法を伝へて、其面目を新めたり。 |
| 天文中、大舎人座中三十一人ありしが、元亀2年、其六人を内蔵寮織物司に補せられ、御寮織物司と号す。 |
| 天正中、豊臣秀吉白雲の水質不良なるお以テ,新在家に移せりという。 |
| 此前後ヨより、印度支那及び、西洋諸国の織物を伝へヘテ其業益精シク機業ノ隆盛ヲ来スト共ニ織工ノ家へて、 |
| 故地に櫛比し、西陣織物の盛名宇内に喧伝せらるるに至れり。今、茲に西陣発、源ノ地をとして、碑を建て其来歴を明らかにす。 |
| 昭和三年十一月 文学博士三浦周行撰 山田得多書』 |
| (碑文は漢字とカナ文だが、カナを平仮名に変更した) |
| 出典:【西陣の碑文】より |
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| そしてもう一つの西陣の碑は、西陣織物会館の前に建つ「西陣」の石碑。 |
| 京都考古資料館の前に立つ「西陣」の石碑は、昭和3年(1928)に、三宅清治郎が立てたものが古くなり、昭和51年(1976)にここに立て直したものだという。 |
| 碑文は、京都考古資料館の前に立つ「西陣」の石碑と同じものが刻まれている。 |
| 西陣がこれほどに残されているのに対し、東陣という名がどこにも残らず、歴史の闇に消えてしまったことは、残念の極みである。 |
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