「西陣」と呼ばれるようになった「応仁の乱」は、室町幕府管領家の些細な家督争いに端を発しており、その幕開けとなったのが、上御霊神社一帯の地であった。



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文正2年(1467)の正月18日早朝に、この地で応仁の乱の始まりとなる最初の戦が行なわれた。

畠山政長が兵二千を率いてこの地に布陣、それに対して家督相続を争うもう一方の畠山義就が兵三千を率いて攻撃を仕掛けたのが正月18日のことである。

両者とも一歩も引かない激戦となったのだが、義就方に朝倉義景や山名宗全が加勢したことによって、形勢は一変に義就の方に傾いて政長方が敗走することとなる。

この段階で東軍となる細川勝元はまだ動こうとはしなかったのだが、上御霊社の地で行なわれた戦がその後10年に亘る応仁の乱の幕開けの戦となったのである。

この年の三月に年号が応仁に改まると共に、細川勝元、山名宗全とも兵を集め全面的な戦いに突入していくのである。

この上御霊社に応仁の乱の最初の戦があった所として「応仁の乱勃発地」の碑が建っている。

というのが、10年間もの長い間続いた応仁の乱の幕開けなのであるが、その対立は畠山家の相続争いである。

政長に細川がつき、義就に山名がつき、夫々思惑を持つ武将達が東西の軍に付いて日本を二分して戦が行なわれたのである。

時は室町幕府、8代将軍足利義政の時代である。



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文正2年(1467)正月18日早朝、この付近、すなわち上御霊神社の森の合戦から、応仁の乱は始まった。

17日の夜、畠山政長は自邸を焼いて一族や奈良の成身院光宣らと、兵約二千を率いてここに布陣した。

翌18日早朝、政長と畠山家の家督を激しく争っている義就(よしなり)が、兵三千余で攻撃をしかけ、

18日は終日、激しい戦いが続いた。義就方には、朝倉孝景、ついで山名宗全が加勢した。

しかし政長方には、たのみの細川勝元がこの段階では動かず、まる一日の合戦ののち、政長方が敗退した。

これが応仁の乱の最初の合戦である。

3月、年号は応仁と改まり、細川、山名両陣営ともに味方を集めて戦時体制をかため、5月から上京を中心に東西両軍の全面的な戦闘にはいる。

                    出典:【応仁の乱勃発地の駒札】より