京の北西部、上京と北区にまたがる一帯を「西陣」という。

東の堀川通から西の七本松通、北の鞍馬口通から南の中立売通あたりまでの、京都御所と北野天満宮に挟まれた地域を指すのだが、

明確な境界はなく、そもそも「西陣」という地名の住所は存在しないのであるのだが、

この辺りを歩くと、西陣の名が付いた施設や公園、マンションなどが目にはいる。

ところで、「西陣」があれば「東陣」があると思われるのだが、その名は何処にも存在しないのである。



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そもそも「西陣」の名は、室町8代・足利義政の時、応仁元年(1467)に、畠山氏と斯波氏の家督争いに端を発し、将軍家の後継者問題も絡み、

山名宗全と細川勝元の勢力争いに発展し、その後、文明9年(1477)まで11年間も続く「応仁の乱」が勃発するのである。

この戦いで、堀川の西(堀川以西、一条通以北)に山名宗全が、堀川の東(室町幕府の花の御所や相国寺、北小路町)に細川勝元が陣を敷くのだが、後にそれらの地域は「西陣」「東陣」と呼ばれるようになる。



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応仁の乱が終わり、地方へ避難していた機織物師は、「西陣」「東陣」に戻ってき、

「西陣」には、大舎人座(おおとねりざ)の集団が、「東陣」には、練貫座(ねりぬきざ)の集団が、織物業を再開するのである。

この2座が織物業の主導権をめぐり対立をするのだが、

「西陣」の大舎人座が高級織物や先進技術も取り込んで、西陣織として日本全国にその名を轟かすのである。

一方、「東陣」の練貫座は衰退の一途をたどり、いつしか「東陣」という名も消滅するのである。

これが「西陣」があって「東陣」の名が無い理由なのである。