四条河原にあった七つの歌舞伎座が、今は四条大橋東詰南側にある「南座」のみが残るのだが、

明治26年までは「北座」も存在しており、今はその跡を記す石碑が建っているのみで、

その他の五座は四条大橋辺りにあったということは判っていても、その場所は定かではないのである。



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北座の駒札にみれば、

『寛文10年(1670)以降、鴨川の西岸に新堤が築かれたことによって、鴨河原の風景は一変した。

河原は「新地」(新造成地の意味)となり、ここに広大な芝居街と茶屋町が出現することになった。

延宝4年(1676)の絵図(祇園社並旅所之図)によれば、この時期すでに東岸の四条通をはさんで、計6軒の芝居小屋が描かれている。

17世紀末の元禄期になると、この芝居小屋は7軒に増加する。

18世紀初頭の「京都御役所向大概覚書」によると、四条北側芝居は、井筒屋助之丞、両替屋伝左衛門の所有とあり、

さらに南側芝居は、大和屋利兵衛、越後屋新四郎、伊勢屋嘉兵衛の三者が所有者としてあげられていた。

しかし、たびたびの大火で19世紀末には、わずか北側に一軒、南側に一軒となった。

その北側の一軒「北座」も、明治26年(1894)四条通拡幅によって消滅した。』

                    出典:【北座跡(この付近)の駒札】より