京都守護職を拝命した会津中将・松平容保は、千名余の兵を率いて、文久2年(1862)12月24日に京に上るのだが、守護職の屋敷が出来るまでに宿舎として使ったのが「金戒光明寺」である。 |
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金戒光明寺は、承安5年(1175)に法然上人が比叡山の黒谷を降り、この地に庵を結んだのが始まりと言われ「黒谷さん」と呼ばれ、京都市民に親しまれている。 |
駒札には、 |
『紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称、黒谷の名で親しまれている。 |
寺伝によれば、承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。 |
以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至った。 |
また、正長元年(1428)、後小松天皇より、上人が浄土教の真実義を悟った由緒により「浄土真宗最初門」の勅願を賜った。 |
御影堂脇檀には、京都七観音、洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音像を安置している。 |
また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(直実)と平敦盛の供養塔二基が建てられている。 |
寺宝としては、山越阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など、数多くの文化財を蔵し、 |
墓地には、国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒、筝曲開祖八橋検校などの墓がある。』 |
出典:【金戒光明寺の駒札】より |
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新選組は会津藩の預りであり、ここには度々出入りをしていたと思われる。 |
新選組を一躍有名にした池田屋事件の時に、近藤勇は金戒光明寺にあった会津藩にも情勢を求めたのだが、 |
会津はなかなか現れず新選組のみで市中探索を始め、池田屋で志士と遭遇するのである。 |
斬り結ぶこと数時間、やっと土方の一隊が駆けつけるも、会津は来る気配もなく、殆ど事が終わった頃に出向いて来たのである。 |
文久2年(1862)に会津より京に駐在した千余人の藩士は、「金戒光明寺」を京都守護職の屯所として、 |
京都市中の治安を守ったのだが、その活躍は知るすべもないのである。 |
金戒光明寺は5年間屯所として使われた。 |
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