それをよしとしない薩長は、12月に京都御所の小御所で、16才の明治天皇以下、皇族の有栖川宮を筆頭に、皇族・上級公家に続き

尾張藩主の徳川慶勝・越前藩主の松平慶永・芸州藩世子の浅野茂勲・前土佐藩主の山内容堂・薩摩藩主の島津茂久らが控え、

その下に公家の岩倉具視・尾張、越前、芸州の藩士・土佐の後藤象二郎そして薩摩の西郷隆盛・大久保利通らが参画をする。



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一部の公家と薩長は、徳川幕府を武力討伐に追い込もうとの筋書きで臨んでいたのだが、

土佐の山内容堂が、大政奉還の功労者である徳川慶喜をこの会議に呼ばず、また徳川にだけ辞官納地を求めるのは不合理だと正論を論じ、

もう一歩で徳川の擁護が成るかに見えたのだが、容堂が「公家が幼仲の天子を要し、権力を欲しいままにしている」と失言をしてしまい、

岩倉具視はここぞとばかり、この言葉につけ込み「天子(明治天皇)をつかまえて幼仲とは何事か」と、つけ込まれ情勢が一変し倒幕への筋書きが決定されるのである。

そしてこの会議の結果、徳川慶喜は二条城を西民から出て、大坂城へと移ってゆくのである。