二条城の西門は今そこに橋は無く、そこから城外に出ることは出来ないのだが、

徳川15代将軍・慶喜が二条城で大政奉還をした後、権力を握った薩長と下級公家により、政敵として辞官納地を迫られ、

二条城を出て大坂に向かうおりに、二条城の裏手にあたる西門からひっそりと出たという。



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明治維新は薩長土肥を主導に進められたのだが、もともと薩摩と長州は関ケ原の戦いで豊臣方に就いた藩で、

その後の処置に不満と不遇の時を過ごし、徳がエア幕府の権力が弱まったこの時に、

西洋の最新式軍備を調え、武力によって徳川幕府を潰し、過激派の公家と結託し政権を奪おうと画策するのである。

いよいよその時が来、徳川幕府を潰そうとした徳に、

慶応3年(1867)10月に、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還という奇策をもって徳川家の安泰を図ったのだが・・・