二条通が堀川通に当たると、目の前に二条城がある。

徳川家康が築城し、徳川最後の将軍・慶喜が大政奉還を上奏した城でもあり、徳川の最初と最後を見ていた城なのである。



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二条城は、慶長8年(1603)徳川家康の造営になるもので、将軍上洛のときの居城であると同時に、政治軍事の中心となるものであった。

二条城は歴史の上で重要な役割を果たした城で、

家康と豊臣秀頼との会見や、徳川家光の将軍宣下、寛永3年(1626)後水尾天皇の行幸、

そして徳川幕府に終止符を打った、慶応3年(1867)徳川慶喜が大政奉観還を上奏したことなど、

徳川家とともに歩んできた城である。

明治17年離宮となるが、昭和14年11月に京都市に下付され、二条城として一般公開されるようになる。

東西500m、南北300mで周囲に堀をめぐらした平城で、天守閣は焼失するが二ノ丸御殿が昔の面影をとどめている。



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二条城は平城で、回りを外堀で囲み隅櫓を載せた石垣が取り囲むなかに、御殿が建つ。

大手門前の」説明文によると、

『旧二條離宮はもとの二條城を以て之に充てられたるものにして、昭和14年10月離宮を配しせられ特別の思召を以て、京都市に下賜あらせられたり。

二條城は慶長年間徳川家康の築造に係る。

徳川家光寛永3年9月、後水尾天皇の行幸を仰ぎたり。

慶応3年10月徳川慶喜此の城より上表して、大政を奉還せり。

明治元年正月、朝廷此の城を収めて大政官代と為し、又明治4年6月京都府庁此処に置かるるや、同5年6月及び同10年1月の両度、明治天皇臨幸あらせられたり。

明治17年7月離宮と定められ二條離宮と称せらる。明治28年5月、明治天皇の行幸あり。

大正4年11月、大正天皇即位禮の際、当城内の大饗宴場に行幸あらせられたり。

城構は平城に属し、本丸、二之丸等より成り、周囲には濠を繞(めぐ)らし、本丸には天守台、石垣等よく旧規模を存し其の郭内には

明治26、7年、旧桂離宮邸より移築せる御殿あり。二之丸には広壮雄大なる二之丸御殿ありて、其の結構比類罕(まれ)なり。』

                    出典:【二条城前の説明書】より