猪熊通を丸太町通まで出て、その通りを西に、大宮通までの少し手前に「所司代屋敷址」の石碑が建つ。 |
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猪熊通の、旧待賢小学校前に立っていた「京都所司代上屋敷跡」の石碑。 |
そして丸太町通に出て、旧待賢小学校の北側の塀に埋もれるようにして建つのが「所司代屋敷址」の石碑。 |
石碑に刻まれた文字は違うのだが、この一角に京都所司代上屋敷があったことを示す石碑なのである。 |
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石碑の正面に刻まれた文字は、「所司代屋敷址」とあり、その下に「東猪熊通西日暮・・・」、その右に「南竹屋町通北丸太・・・」とあり、 |
「・・・」以下の碑文は地中に埋もれ、読むことが出来ず意味不明だが、いずれにしても京都所司代の上屋敷が、 |
旧待賢小学校の敷地であったという広さをみても、京都所司代の権力は大きかったといえる。 |
京都所司代は、朝廷の監視や治安維持を担っていたが、徳川の安定した治世が続くと、その役職は老中幕閣への登竜門として形骸化し |
幕末には尊皇攘夷の過激派を抑えることができず、京都守護職が設置されるとその傘下に入り、特にこれといった活躍はしていない |
因みに、最後の京都所司代は、桑名藩主・松平定敬(さだあき)は、 |
京都守護職となった松平容保(かたもり)の実弟であり、兄弟ともに最後まで徳川家とともに命運と共にしたのである。 |
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