島原の出入口は、東の大門と西門とがあり、新選組の壬生屯所から来ると、西門から入ることになる。



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西門は、東の大門のように門そのものは残ってなく、その跡に石碑が建っているだけである。

西門は享保17年(1732)に柱を立てただけの門が作られ、天保13年(1842)に東の大門にもひけをとらない門が作られたのだが、昭和52年(1977)にトラックがこの門を壊してしまった。

北隣に中央青果卸売市場があり車の出入りが激しすぎてのことだったらしい。

3年後に門柱が復元されたがこれもトラックに壊されてしまったのである。今は石碑のみが、その跡に残っているのである。

新選組の隊士たちも幾度となく通ったであろう西門が今に残っていないのは残念なことである。



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石碑の碑文には、

『島原は、寛永18年(1641)、官命によってその前身の六条三筋町の傾城町が、ここ朱雀野に移されたことに始まる。

その移転騒動が、当時九州で勃発した島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれたが、正式地名は、西新屋敷という。

島原は江戸期を通じて公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展していくが、遊宴を事とするにとどまらず、

和歌俳諧等の文芸活動を盛んにし、ことに江戸中期には島原俳壇を形成するほどの活況を呈した。

島原の入口は当初東の大門のみであったが、享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられた。

それは両側に門柱を建てただけの簡略なものであったが、天保13年(1842)に現在地に移され、構えも冠木門に切妻屋根、さらに控柱に小屋根を設ける高麗門型となった。

近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが、昭和52年(1977)11月、輪禍によって全壊した。

三年後に門柱のみが復元されたが、平成10年(1998)4月、再度の輪禍に見舞われてそれも倒壊した。

よって、ここに碑を建立して、島原西門の由来と往時の形容を刻するものである。

花の色は いひこそ知らね 咲きみちて 山寺遠く 匂ふ春風』

                    出典:【島原西門碑の碑文】より