| 新選組の壬生屯所から南に歩いて19分の所にあったのが、島原遊郭である。その近さから、芹沢や新見、近藤や土方など、新選組の幹部がここで遊んだという。 |
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| 島原遊郭は、室町時代にはあったと言い、時々に場所を変え、此の地に移ったのは、江戸時代の寛永18年(1641)であったという。 |
| 島原の名は、当時に肥前長崎で島原の乱が起こり、ここに映る引っ越しの様子が乱れたことで、島原の乱に掛けて「島原」と名付けたとも言い、 |
| 島原は江戸以来、公の花街であり、東の吉原、西の島原といわれた位、格式の高い遊郭であった。 |
| 明治維新後に出来た、いわゆる新地と呼ばれる遊郭とは天と地ほども違い、単に遊宴を事とするのではなく、 |
| 和歌・音曲・踊り等々の教養、格式の高さがあった花街だったのである。 |
| 新選組の面々も、近藤勇は深雪大夫、土方歳三は花君大夫、山南敬助は明里、永倉新八は小常、伊東甲子太郎は花香大夫と、 |
| それぞれに島原遊郭の大夫・芸妓と馴染みを繋いでいたのである。 |
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| 室町3代将軍・足利義満が許可した遊郭が公の娼地として始まったのが島原遊郭の起こりで、それが江戸時代になって、六条三筋に移り、その後、現在の地に移っている。 |
| 京ではその格式や成り立ちなどから、江戸では吉原、京では島原と言われたのだが、格式の高さと立地条件から、 |
| 新興の祇園や宮川町に客を奪われ、さらに新選組が客になると、一般客が避けるようになり、閑古鳥が鳴くようになる。 |
| 新選組が京から追われ、明治維新を迎えると、ますます島原遊郭は衰退をし、今に花街の姿を残すのは、「大門」と「輪違屋」「角屋」のみである。 |
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