西郷隆盛が「近衛家の清少納言」と褒め称えた村岡局は、天明6年(1786)大覚寺門跡・津崎左京の娘として、嵯峨に生まれる。

嵯峨野には村岡局に関わるものが三つあり、



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一つ目は、嵐山公園にある「津崎村岡局の銅像」

この銅像は、幕末の勤王家、津崎村岡局の像で、昭和3年(1928)、原型作者中牟田三次郎、設計者阪谷良之進の製作によって建てられた。

『嘉永6年(1853)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄に慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。

局は、僧月照や水戸の鵜飼吉左衛門らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍した。

このため、安政5年(1858)井伊直弼による安政の大獄が起こると、局も捕えられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。

その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵(じきしあん)に隠居、付近の子女の教育に尽くした。

村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は嵯峨庶民の慈母でもあった。明治6年(1873)88才で没した。』

                    出典:【津崎村岡局の銅像の駒札】より



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二つ目は、大覚寺大沢池の畔にある「津崎村岡碑」。駒札によると、

『津崎村岡(矩子)は、幕末から維新にかけての女流勤皇家で、大覚寺門跡諸大夫・津崎筑前守の妹として、天明6年(1786)京都に生まれる。

幼少より近衛忠煕(ただひろ)に仕え、村岡局となる。時勢の変遷に明るく、成就院僧・月照や西郷隆盛らと交友を持ち、維新を助ける。』

                    出典:【津崎村岡碑(明治二十五年建立)の駒札】より



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三つ目は、直指庵の中にある「津崎氏村岡矩子之墓」。「窓近き 竹の林は 朝夕に 心をみがく種と こそなれ』津崎村岡

直指庵には、勤皇の女傑といわれる村岡局の墓がある。墓碑には自筆で「津崎氏村岡矩子之墓」と刻まれている。駒札を要約すると、

『天明6年(1786)嵯峨大覚寺宮の家来・津崎左京の娘として生まれる。十三才で近衛家に仕え、忠煕の信頼厚く近衛家では村岡と呼ばれ、後に老女の地位に昇る。

安政6年(1859)に、尊王譲位の志士の申し出を近衛忠煕に取次ぎ便宜を図ったと、江戸に護送・投獄をされる。

かって村岡局は、島津斉彬の幼女・篤姫が13代将軍・徳川家定の室として江戸に向かった時に、71才の局は篤姫の養母として江戸城に赴いている。

その時に貰った三つ葉葵の紋を散らした打掛を着て評定所の白砂に坐り、安政の大獄の過酷に慣れた奉行もその扱いに困ったという。74才のときである。

禁固30日永謹慎を言い渡され、嵯峨に帰り直指庵に入り、近衛家代々の冥福を祈り、風月を友として、里の人々の教養に勤めた。明治6年(1873)88才で寂した。

その村岡局がここに眠っている。』

                    出典:【勤皇の女傑・村岡局の駒札】より