山科毘沙門堂と古高俊太郎の関わりは、俊太郎の父が近江大津の代官に仕え、後に山科毘沙門堂門跡の家臣となったことで、俊太郎もこの門跡の近習となるのである。



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その後、文久元年(1861)京に出た俊太郎は、河原町四条上るで筑前藩黒田家の御用達商人、升屋喜右衛門を名乗り、

古道具・馬具を扱うのだが、裏では、長土肥の志士らと交わりを持っていた。

しかし、そのことが洩れ元治元年(1864)6月に新選組により捕えられ、家に隠した武器・弾薬が没収され、志士との密約書も発覚し、

壬生の前川邸で厳しい取り調べを受けるが白状せず、業を煮やした土方歳三が、今に残る前川邸の土蔵で逆さ吊りにし、

足の指の爪に五寸釘を打ち、そこに蝋を流し込むという拷問に、俊太郎も耐えかねて、

とうとう、祇園祭の日に京の町に火をかけて、御所に乱入し孝明天皇を連れ去るという企てを白状するのである。

この自白により、新選組が探索を始め、三条小橋の池田屋に集まった志士を襲い、

肥後の宮部鼎蔵、土佐の北添佶摩・望月亀弥太、長州の吉田稔麿など、多くの志士が討ち取られ明治維新が数年遅れたという。

古高慎太郎は、その後、六角獄舎に繋がれたが、禁門の変のどんど焼けに乗じて、獄中で斬殺されるのである。行年36才であった。