JR山科の駅から毘沙門堂には、東海道本線をくぐって北側に、線路に沿って東に歩き、毘沙門堂への石碑がある道を左に折れ、真っ直ぐに北へと歩いて行く。

琵琶湖疏水に掛かる、安殊橋から北に三丁(327m)で毘沙門堂の参道に着く。



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参道の入口に架かるのが「極楽橋」。

この橋は、

『人皇百十一代、後西天皇がこの地に行幸せられ、橋より上はさながら極楽浄土の様な、清浄華麗域であると感嘆せられ、

極楽への橋、極楽橋との勅号を賜ったもので、明治以前までは如何なる高位の人といえども、この処で下乗され参拝されたのである。』

と、極楽橋の碑文にある。



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延暦年間に最澄が洛北出雲寺の草庵を立て、自作の毘沙門天像を安置したのがこの寺の起源である。

たびたび兵火にかかり荒廃のままであったが、寛文5年(1665)公海の中興後、代々法親王が入山して、天台京都五門跡の一つとなった。

本殿の後ろには霊殿があり、毘沙門堂の縁起は駒札によると、

『護法山と号する天台宗の門跡寺院で、春の枝垂桜と秋の紅葉が美しい山科の名刹として知られている。

寺伝によれば、大宝3年(703)に上京区の相国寺の北に創建された出雲寺が起こりと伝えられ、

延暦年間(782~805)に最澄(伝教大師)が自ら作った毘沙門天を安置したことから、毘沙門堂と呼ばれるようになったという。

平安末期以降、度重なる戦乱で荒廃したが、天台宗の僧・天海とその意志を継いだ弟子の公海により、江戸時代の寛文5年(1665)に現在地に再建された。

その後、後西天皇の皇子・公弁法親王が入寺し、以来、皇族や摂関家の子弟が門主を務める「門跡寺院」となった。

正面の本堂に本尊の毘沙門天が祀られている。左奥の宸殿は後西天皇の旧殿を賜ったもので、狩野益信の筆による、

見る角度によって目や顔の向きが変わる「天井の龍」や、逆遠近法で描かれた「九老之図」などの襖絵が有名である。

その奥には晩翠園と名付けられた池泉回遊式庭園がある。』

                    出典:【毘沙門堂の駒札(山科区安朱稲荷山町)】より