京都駅から5系統の市バスに乗り、左京区の「一乗寺下り松町」で降りて東に8分ほど歩いたところに「金福寺」があり、ここは松尾芭蕉ゆかりの「芭蕉庵」があり、

庵のまわりには石碑や句碑が多くあり、また与謝蕪村の墓もあることから、京都でも有名な俳跡として名高い寺院である。

また幕末の安政の大獄で、井伊直弼の密使として暗躍した、村山たか女の終焉の地としても知られている。



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金福寺の由来を駒札に見ると、

『佛日山金福寺は、清和天皇の貞観6年、慈覚大師が自作の聖観音菩薩の像を祀り、国家安泰、衆生救済を念じて創建された。

その後、一時荒廃したが、元禄の頃、鉄舟和尚が、復興して臨済宗とした。

その頃、松尾芭蕉は時々、鉄舟和尚を訪ねて親交を深めて居たので人々が、後丘の庵を芭蕉庵と云う様になった。

降って安永の頃、与謝蕪村の一門が庵の退廃を慨いて、再興したのが、今日の庵室で、彼等はしばしば当寺を訪れ、句会を開いて居た。

この寺は、観音の霊場で、また、俳諧の聖地とされ蕪村、呉春、慶文、中川四明、青木月斗、穎原退蔵とのゆかりも深い。』

「うき我を さびしがらせよ 閑古鳥  芭蕉」

                    出典:【金福寺の由来の駒札】より



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拝観料400円を納めて中に入ると、本堂には、本尊の「観世音菩薩」、蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」や「芭蕉翁の肖像画」、

そして蕪村一門が使ったという「二見型の文台と重硯箱」などがあり、また村山たか女の遺品などが展示されている。

ぜひ靴を脱いでここにあがって、ひと時の時の流れを止めて悠久の流れに思いを馳せてみることを進めるものである。



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文久2年(1862)の11月、三条河原に生晒しにされた女がいた。その名を、村山可寿江こと村山たかと言った。

たかは、文化7年(1810)に、近江国犬上郡多賀町で多賀大社の僧と巫女の間に生まれ、

才色兼備で祇園で芸妓になると一躍名を馳せ、金閣寺の住職に見受けされ男の子を生む。

たかは、その子・帯刀を金閣寺侍とし彦根に帰ると、井伊直弼に目を止められ、井伊大老のふところ刀である長野主膳の手足となり、

子の多田帯刀ともども、安政の大獄に身を投じ、勤皇の志士達の動向を探り、志士を江戸送りとするのである。

だが、安政7年(1860)桜田門外で井伊直弼が暗殺をされた2年後の文久2年(1862)に、島原遊郭近くに潜んでいた所を尊皇攘夷の志士に捕えられ、

ただ帯刀は斬首され晒し首となるが、たか女は女なるがゆえと、三条河原に三日三晩、生晒しにされる。

その後、金福寺にて出家をし、明治9年(1876)に、67才で波乱の一生を終えるのである。