檀汪法林寺には、鷹司家諸大夫の高橋俊璹(たかはし としひさ)の墓がある。



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高橋俊璹は、文化5年(1808)に京に生まれ、代々、鷹司家に仕える家柄で、9才の時から鷹司の政通(まさみち)、輔煕(すけひろ)父子に仕え、成人してから諸大夫となる。

飯泉喜内や頼三樹三郎などと交わり、幕末の日本を憂いている。

安政5年(1858)に、井伊直弼が大老に就くと、尊王攘夷の思想を持つ者の弾圧が始まり、井伊直弼の意を汲んだ、

間部詮勝(まなべ あきかつ)を京に送り、水戸や小浜、また鷹司家の人物が捕えられ、有栖川宮家の家人までもが捕えられるのである。

一条家にまでも類が及び、この時に近衛家の村岡局や橋本佐内、吉田松陰、頼三樹三郎も次々に捕えられている。

この時期に高橋俊璹も捕えられ、頼三樹三郎と共に江戸に送られ伝馬町の獄舎に繋がれるが、

井伊直弼が暗殺されると赦免されるのだが、その時の思いが強く、慶応2年(1866)に59才で病没するのである。