龍馬坂を登り詰めると、その先には「霊山正法寺」へと続く坂道があり、その途中には幕末に志士たちが葬された「霊明神社」がある。



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霊明神社を参拝するのは自由なのだが、この時は何故か鳥居を潜ることが出来なかった。

特に取り立てた理由などは無かったのだが、その先に見える「正法寺」がひっそりと門を閉ざし、

来る者を拒んでいるような雰囲気と重ね合わせ、この霊明神社に参拝することを躊躇わせたのである。



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説明板には、

『文化6年(1809)8月3日主殿寮の史生従六位上日向目村上都愷(くにやす)大人が門人および神道有志のため、

徳川幕府の政策下にありながら神道葬祭を断行し、神道信仰素志貫徹を図るため、

正法寺の塔頭清林庵所有山林の一千坪を買い受けて霊山神葬地を創設し、同年11月霊明神社を創建して神道葬祭を始める。

三代の神主村上都平(くにひら)大人の時、文久2年(1862)11月18日竹御所(曇華院)に仕える勤王家吉田玄蕃の志により、

長州清末藩国学者船越清蔵守愚の墓を建立し、長州藩主の使者と長州藩士の参列のもとに神道葬を営んだ。

これが機縁になって長州藩をはじめ殉難志士を当霊山に埋葬祭祀することになった。

文久2年(1862)12月14日神祇伯白川家の古川躬行や津和野藩の福羽美静らの発起により、

安政の大獄以降の殉難志士の「報告忠死の霊魂祭」が営まれ、招魂社また靖国神社創建の起源をなすものとなった。

「死して護国の神となる」「霊山の村上にて皇国の手振りにて葬らることを如何に楽しとせし事ぞ」と霊明神社に葬られ、

神霊として祀られることを無上の名誉と思ったのである。

明治政府が我が国最初の官祭招魂社の場所と定めたのは、霊明神社によって志士の御霊を鎮め、慰霊している聖地であったからである。

招魂社創建に伴い、霊明神社の約一千八百坪の墓地・境内地が上知となった。』

                    出典:【霊明神社創設の説明文】より