天授院と幕末維新との繋がりは、ここに横井小楠の墓所があることである。


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横井小楠は肥後藩士で幕末に多くの人に影響を与えた儒学者で、文化6年(1809)に肥後国熊本城下で生まれる。

幼少より才があり、若くして藩校の居寮長に命ぜられている。

熊本藩ではその考え方があまりにも進んでいて、藩の旧い体質には溶け込めず不遇の時を過ごしたのだが、世の賢明な人達はその才を高くかっていたのである。

その一人が越前福井藩の松平春嶽で、橋本左内らの推薦により、春嶽の政治顧問として招かれ、

福井藩の藩政改革や幕府の政事総裁職であった春嶽を助け、幕政改革にもかかわっている。

熊本の小楠の私塾「四時軒」(しじけん)には坂本龍馬も訪ねており、時勢を共に論じている。

この訪問で後に龍馬が献策する「船中八策」の原案を聞かされている。

小楠を特に評価したのが勝海舟で、「西郷隆盛と横井小楠が組んで、小楠の言ったことを西郷が実行すると、

日本はえらいことになると」言っている。(後に、これが大政奉還という形で実現することになるのだが)

その小楠の考えを的確に表しているのが「今日言ったことでも、明日になれば全然逆なことえお言うかもしれない」という思想である。

これでは普通の人間では到底着いて行く事は出来ない。

坂本龍馬も、この人には手を焼いたらしく、「(小楠は)二階に上って酒でも飲みながら、政治劇を見物して下さい。役者は我々が演じますから」と云っている。

とにかく考え方が柔軟で、普通の人は、その考えが理解できなかったようである。


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明治維新後も明治政府に参画するが、大久保利通などは、小楠を使いこなせなく大した評価はしていない。

大きい人間は、それを使う人も大きな器量を持たないと使いこなせないのである。

明治の新政府に参与として登用されるのだが、これに不満を抱いた者もいて、横井小楠が参内からの帰途、

寺町通丸太町下ル東側(京都御苑の南東角)で、十津川郷士らによって暗殺される。明治2年(1869)のことで、齢61才であった。

その墓所がここ「天授庵」にある。