粟田山荘の前の細い道を登ってゆくと「尊勝院」である。


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粟田山荘の横を通り、石の階段を登ろうか、はたまたその横の坂道を歩こうかと迷いながら、上から降りてくる人とすれ違う。

本格的な山歩きの服装で降りて来る人達は、東山トレイルを楽しんだ人達だろう。何組かの人達とすれ違って「尊勝院」へとたどり着く。

着いた頃には息が上がって、とても山歩きなどは出来ないことを、身に染みて感じたのであった。


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そんなことを感じながら、尊勝院に着く。

尊勝院は、元三大師(がんさんだいし良源は、第18代天台座主で、比叡山中興の祖として知られ、お御籤を日本で初めて考えた人物である)を本尊とした寺で、青蓮院の塔頭である。

ここが三庚申の一つとされるのは、三尸(さんし)の虫を食べる「青面金剛」を祀り、その使いとされる「不見・不聞・不言」の三猿が安置されていることからである。

また本堂には「米地蔵」が祀られており、この地蔵に参拝すると一生食べるに困らないという伝えがある。


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本堂横の駒札には、

『尊勝院は天台宗に属する寺院で、保延年間(1135~41)に、

陽範阿闍梨が比叡山横川に尊勝坊を開創したことに始まり、その後青蓮院三条白川坊の裏に移されたと伝える。

また応仁の乱により荒廃したが、文禄年間(1592~1596)に豊臣秀吉によって本堂が再建されたという。

江戸時代には、本堂は元三大師を本尊として南面して建っていたことから、南面大師堂あるいは元三大師堂とも呼ばれていた。

大正4年には、寺地が現在地へ移転されたが、その際に建物は本堂のみが移された。

現在の本堂は、桁行三間、梁行四間の規模で正面一間通りを外陣、奥寄りの方三間を内陣とし、内陣には中央に四天柱を立てて、背面に仏壇を間口いっぱいに設けて本尊元三大師像を祀る厨子を安置する。

史料を欠くために造営年代を明らかにすることはできないが、内陣の四天柱内の細部様式は桃山時代まで遡るものと判断される。

この本堂は、桃山時代まで遡るものと考えられ、その後、幾度かの修理によって大きく改造されているところがみられるものの、

内陣は常行三昧堂の形式である一間四面堂の構成で建てられ、また極彩色が施されて桃山時代の趣がよく残されている小規模ながら、古式で上質の建物である。』

                  出典:【尊勝院本堂一棟の駒札】より