粟田口庚申堂へと向かうのだが、そも粟田口とはどいう所だったのか・・・ |
三条神宮道から南に下がると、白川小学校西門のそばに「粟田口」の石碑が建っている。 |
粟田口は京七口の一つであり、京の七口とは一般的に、 |
鞍馬街道の「鞍馬口」・若狭街道の「大原口」・志賀越通の「荒神口」・東海道の「粟田口」・山陰街道の「丹波口」・鳥羽街道の「東寺口」・西国街道の「鳥羽口」と言われるが、 |
他にも「竹田口」「伏見口」「長坂口」などがあり、どうも七口だけではなく、豊臣秀吉が造らせた「お土居」の出入り口は七口ではなく、もっと多くあったようである。 |
石碑の駒札には、 |
『粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲に渡る地名である。 |
この付近は奈良時代以前から開かれた土地で、粟田氏が本拠とし、粟田郷と呼ばれていた。 |
平安京ができると、東国との交通の要地あるいは軍事上の要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)と呼ばれ、京都七口の一つにも数えられた。 |
鎌倉・室町時代にはここを通って馬借(ばしゃく)や車借(しゃしゃく)など、運送業者が物資を運んだ。 |
江戸時代には東海道五十三次の西の起点、三条大橋を間近に控え、人や物資の往来で一層にぎわった。 |
またこの付近には、平安時代の末以降、刀鍛冶(刀を作る職人)たちが住居を構えていた。 |
中でも、童子に化けた狐に鍛冶の手伝い(相槌)をしてもらい名刀「小狐丸」を打ったという伝説が残る、刀匠・三条小鍛冶宗近が有名である。 |
江戸時代の元和年間(1615~1624)には、瀬戸から焼き物の技術が伝えられ、「粟田焼」と呼ばれる陶器の産地になった。 |
この右手にある門跡寺院・青蓮院は「粟田御所」とも呼ばれている。』 |
出典:【粟田口の駒札】より |
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