JR山科からは京阪京津線の踏切りをこえて南に、三条街道と交差する所でRACT山科を右にみて左に、旧東海道を東に10分ほど歩くと、六番札所の山科地蔵「徳林庵」に着く。 |
山科地蔵(または、四ノ宮地蔵)は、旧東海道沿いに建ち、保元2年(1157)に、後白河法皇の勅命で、 |
京の主要六街道に安置された地蔵尊のうちの一つであり、京への災いが及ばぬように、ここで京への魔物の進入を防いだのである。 |
地蔵尊の前にある駒札によると、 |
『山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。 |
後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口6箇所に一体ずつ分置された。 |
以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。 |
徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康(さねやす)親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が1550年に開創した。 |
境内には、人康親王、蝉丸供養等(室町時代)、茶所の4体石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。』 |
出典:【山科(四宮・山科廻り)地蔵と徳林庵の駒札】より |
山科地蔵の北側にあるのが「徳林庵」その駒札によると、 |
『柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派の寺である。 |
南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる。 |
仁明天皇の第四の宮人康(さねやす)親王の菩提を弔うために草創したものという。 |
この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処で、地名も四の宮泉水といわれている。 |
地花堂本尊は、参議小野篁(たかむら)が一木から刻んだ六地蔵の一といわれ、京の町から諸国、諸地方へ向う東海道の出口にあたり、 |
物詣でや疫病の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり地蔵菩堤信仰として栄えた。 |
また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また禅丸塔ともよんでいる。 |
江戸時代には検校位を有する盲人が、毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を演じ、親王の御霊を慰めたという。』 |
出典:【徳林庵の駒札】より |
コメント