仏舎利大塔を回り込むと、妙満寺16世と27世の二つの石碑が建つ。 |
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石碑には「上総七里法華開基 心了院日泰上人報恩碑」と刻まれており、碑文によれば、 |
『妙満寺十六世、永享4年(1432)京都白川に生る。19歳寂光院日尊上人の門に入り叡山、高野山、奈良に学ぶ。 |
知行兼備高徳の人。師に随い関東に下向。武蔵、両総、伊豆、相模に布教す。新寺建立および改宗せしめる寺院多数なり。 |
特に上人品川から浜野へ渡船中、突如の嵐に遭遇せり。この危機に、上人悠然と法華経読誦題目高唱、たちまち嵐止みぬ。 |
乗りあわせし酒井定隆公、これを機縁として上人に帰依、長享2年(1488)土気城主となるや、 |
直ちに上人を迎え領内七里四方に法華改宗令を公布、これ宗門史上燦然たる「上総七里法華」の開創なり。 |
後に、推されて総本山の法灯を継ぐ。永正3年(1506)正月19日、浜野本行寺にて円寂。世寂七十五歳。』 |
出典:【心了院日泰上人の碑文】より |
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その左に「常樂院日経上人碑」と刻まれた石碑があり、碑文には、 |
『妙満寺二十七世、天文20年(1556)上総二ノ宮に生る。法華引通に東奔西走、諸宗を破折し正義の法技を大いに鳴らす。 |
然るに強義折伏(しゃぶく:悪法を砕き、迷いを覚まさせる)は、徳川幕府の怒りを招く。 |
慶長13年(1608)江戸城にて上人浄土宗と公場対決せんとするに、その前夜幕府策略により襲撃されて半死半生で、当日上言を発することあたわず。 |
一方的に敗北を宣せられ投獄される。翌14年師弟六人京都の護送され2月20日六条河原にて耳鼻削ぎに処せらる。これれを「慶長法難」と称す。 |
上人法難をことなく、この後も諸国に布教に数々の寺院を建立し、さらに不惜身命の大導師也。 |
元和6年(1620)11月22日富山神通川畔に寂滅し、齢七十歳で、墓碑は金沢本覚寺にあり。』 |
出典:【常樂院日経上人の碑文】より |
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また方丈の横を西に、そこにあるのが「日什大正師御霊廟」である。 |
開祖日什上人は、鎌倉時代後期の、正和3年(1314)に、会津で武士の子として生まれる。 |
両親の愛を一身に受けて育つも、15才の時に両親が亡くなり、19才で比叡山に登り修行をする。 |
38才で学頭になり、さらに精進を重ね20年を経て、故郷の会津に帰り一宇を建て、玄妙能化の徳を広めるのだが、 |
66才になったある時、日蓮の書いた書物を読み、今迄の疑問が悉く消え去り、法華経に傾注するのである。 |
歳をとってから改宗をし、京の室町六条坊門に一宇を建立し「妙満寺」と号し、教えを広めてゆくのだが、康応2年(1390)に会津に戻り、そこで生涯を終えるのである。 |
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