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鞍馬街道を、晋六窯の前の分岐を右に歩くと、その先に「幡枝八幡宮」の森が見えてくる。



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幡枝八幡宮は、寛平6年(894)境内に清水が湧いたことで、石清水八幡宮から祭神を勧請して、幡枝の産土神としたことに始まる。

昭和7年に、この神社で一振の刀が見つかり、これが、

古刀(江戸時代になるまで)、新刀(江戸時代となる、慶長元年(1596)から、明和元年(1764)まで)、

新々刀(明和元年(1764)から、明治9年(1876)の廃刀令まで)の刀の歴史の中で、

新刀時代の名刀工国広の作で、幡枝八幡宮の石清水で鍛えた太刀を奉納したものだと言われている。



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幡枝八幡宮社略記によれば、

『祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと:応神天皇)と息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)で、

城州愛宕郡幡枝に鎮座まします八幡宮と崇め奉るは、人皇五十九代宇多天皇の御宇(みよ)寛平6年、

新羅国の夷賦等(えびすら)我邦(わがくに)の西境(にし)を犯さんとせしこと有し頃、我里人に柙託(おつげ)ましまし、

皇都及び人民守護のため、此地に鎮座したまわらんの神告(おつげ)ありて、正しく景向(えいごう)なしたまいしかば、

宮(おおやけ)に秦(まお)した御社を創営し、神告を蒙りし輩(ともがら)守護し奉りしより以来、神威日日に新たに夜々著るしく、

その霊応を蒙ること挙げて員(かぞへ)がたし、之によって御代々々の天皇御尊崇ましまし、種々御神宝及び金帛(きんぱく)御奉納なし給ひ、

就中(なかんづく)、後水尾天皇殊に叡尊厚く、神田を御寄附あらせられ、近くは桃園帝、後桜町帝よりも数々祭具御寄附ましまし、今の菊御紋の吹散、御鉾なども其の一つなり。

尚又、御社および神輿等御修復の節々も、御所々々御銀(おんぎん)を下しおかれ、堂上方よりも夫々、御寄附相せられ、

年々祭式数度(たびたび)の中にも、八月御神祭(おんまつり)には御所々々堂上方より御初穂を御寄附したもう。

尤も御神礼をも四季に納め奉る処なり、また中古、刀鍛冶一条国廣鍛の道に秀でんことを此の御神に願い、日々に歩を運び冥助を祈り奉りしに、

その大願成就の奉賽として、慶長4年の秋、当御山の麓なる石清水といへる流の清泉を以て、神前に於て一振の御太刀を鍛え、神扉に備え奉りしを、

後水尾帝聞召れ、叡覧あるべき仰(おおせ)を蒙り、神主等守護し奉(ささ)げ奉(たてまつ)りしに英感のあまり宮中に少頃(しばらく)とどめ置(おき)たまひ、

黄金作の御拵(こしらへ)を命じたまひ、唐裂(とうぎれ)の御太刀袋に納め再び御寄附になりたまふ。

則ち神宝第一とす斯(う)。高貴の御尊崇座(まします)も、全く神験著が故にして仰も中々愚なり。

原(もと)から文武の高運を守りたもう御神なれば、貴きとなく賤となく日々に尊信したまわんには、

士農工商ともその職業に出世繁盛し、家内安全和睦して、子孫長栄諸望満足したまひ、殊に剣刀を鍛ふ人々に、その道に秀で英名を挙たまわんこと、何の疑ありなん。』

                    出典:【幡枝八幡宮社略記】より