五社神社を出て道を左に、長福寺へ向かう途中の道角に、宝篋印塔が建っている。

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この塔は鎌倉時代初期の武士で歌人でもあった、宇都宮頼綱(法名蓮生)の為に建てられた供養塔である。

駒札によれば、

『宇都宮頼綱(法名蓮生)の供養塔である。

頼綱は、下野国(栃木県)宇都宮を本拠とする坂東の名族、宇都宮氏の鎌倉時代初期における当主であって、執権北条時政の女婿で、有力御家人の一人であった。

元久2年(1205)8月、幕府に対する謀反の疑いを受けて出家し、実信房蓮生と号した。

のち、京都に来て浄土宗に帰依して法然上人に仕え、上人没後は法然の弟子西山上人証空に師事して、

吉峰往生院の再興を助けるとともに、自らはここで下津林に寺を建てて住した。これが蓮生寺の起こりである。

また、蓮生は和歌を好み、歌人としても有名で、藤原定家と親交を結び、その娘は定家の嫡子為家の妻となっている。

有名な「百人一首」も蓮生の撰と伝えられている。

正元元年(1259)11月に没した。88歳であったと伝えられている。

また、東方下津林鎮守五社神社境内には「歴応2年願主蓮性」(北朝年号1339年)の銘の入った石燈籠が立っている。

豊臣秀吉がしきりに所望したと伝えられる名品である。』

                    出典:【蓮生塔の駒札】より

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また頼綱と百人一首を撰した藤原定家とは親交が深く、出家をし蓮生と名乗り、

京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けた折に、定家に斯うて襖絵にする和歌を選定してもらったのが、百人一首の始まりだと言われている。