東洞院通から蛸薬師通を右に、再び高倉通に入ると、そこに高倉小学校がある。 |
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高倉小学校もまた、京の都心部における児童数の減少により、それまで続いてきた番組小学校の幾つかが統合して出来た小学校である。 |
学校前に建つ碑文によれば、 |
『立誠・生祥・日彰・明倫・本能・初音・城巽の各校はいずれも我々の先人が明治2年、自らの力で番組小学校として創設(初音・城巽両校は後に中学校となる)。 |
以来、百二十有余年にわたり幾多の優れた人材を輩出するとともに、地域のシンボルとして愛され親しまれてきた。 |
しかし、都心部における児童数減少の中、子供達により良い教育環境を与えたいとの思いの上に、 |
21世紀の人づくりをめざした五校の統合を決意、ここに高倉小学校として開校することとなった。 |
開校に当たり五校の輝かしい歴史と、統合を進めた七学区区民の英知溢れるケ油断を後世に伝えるため、これを記念碑として残すものである。』 |
出典:【高倉小学校開校記念碑の碑文】より |
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またここは、明治2年(1869)に開校した下京区第4番組小学校の跡で、後に平成5年3月まで日彰小学校として、 |
京都の子弟教育を担ってきたのだが、児童数の減少により五つの番組小学校が統合され、日彰小学校の跡に高倉小学校として開校されたものである。 |
壁面に日彰学区の説明板が掛かっていて、それによれば、 |
『ここは和久屋町(元日彰学区)です。 |
町域は、南北の高倉通をはさみ、北は六角通から南は蛸薬師通に至る、天正年代に豊臣秀吉が町界を定めたとされる、両側町となっています。 |
寛永18年(1641)前平安城町並図では、高倉通の西側(元日彰小学校、現高倉小学校の地)に、 |
徳川家康の異父弟久松定勝を祖とする伊予松山藩(現愛媛県)の京屋敷があり、人家が東側に集中し「かたはら町」と称された頃もありました。 |
東隣の甲屋町(かぶとやちょう)には、京の商人に大きな影響を与えたとされる心学を創設した石田梅岩(1685~1744)の自宅があり、当時はここで、今でいうゼミナールが開かれていました。 |
近年では、洋画家で美学・美術史学者でもあった有名な須田国太郎(1891~1961)が住まいしていました。』 |
出典:【和久屋町(元日彰学区)の説明】より |
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