仏光寺通から一筋北の、綾小路高倉西入にあるのが「神明神社」である。

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駒札によれば、

『当地は平安時代末期、近衛天皇(在位1141~1155)がしばしば皇居としたと伝わる

藤原忠通(ただみち:近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で、「四条内裏」または「四条東洞院内裡」といわれた。

この邸内にあった鎮守の社が神明神社で、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神とし、創建年代は明らかでないが、平安時代から今日まで人々の崇拝の社となっている。

社伝によると、近衛天皇の時代、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜、空に現れ都を騒がせた。

弓の名手であったという源頼政(よりまさ)は退治の命を受け、神明神社に祈願をこめた後、見事に鵺を退治した。

この時使われた弓矢の「やじり」二本が当社の宝物として伝わっており、今でも祭礼の時に飾られる。当社が厄除け・火除けの神といわれるゆえんである。

その後、天台宗の護国山立願寺円光院という寺によって管理されていたが、明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され、

それ以来、神明町が管理を行っている。榎木の大木があったので、「榎神明」ともいわれた。

また、当社には豊園(ほうえん)小学校内(現在の洛央小学校)に祀られていた文子(あやこ)天満宮(菅原道真を祀る)の祭神が戦後合祀されている。

祭礼は九月の第二土曜日とそれに続く日曜日である。』

                   出典:【神明神社の駒札】より

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平家と源氏が覇権を競っていた時代、藤原忠実の子である、忠通よ頼長が関白の座を競い合い、

忠実が溺愛した頼長がその座に着くのだが、人を人と思わない頼長を鳥羽法皇が嫌った為に、頼長は崇徳上皇に近づいてゆく。

一方、忠通は後鳥羽天皇へと近づくのである。

その後、後白河天皇と崇徳上皇が皇位継承をめぐって起こる、骨肉相食む「保元の乱」や、

それに続く平家と源氏の武士の覇権を争う「平治の乱」をも生き延びて、忠通は白河天皇から後白河天皇までの5代の天皇に仕え、

平等院を建てた藤原頼通の50年に次ぐ、37年という長きにわたり摂政の職を務めたのである。

その忠通の鎮守社が、神明神社として、今はビルや商店が入り交じる中に、小さな祠が残っているのみである。