大原神社の向かいには「本居宣長先生修学之地」の石碑が建つ。ここも以前に訪ねた時の記事を再褐する。

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クリックで大きくなります 本居宣長は江戸時代の国学者で医師でもあった。享保15年(1730)に伊勢松坂に生まれ、江戸や京に遊学の後、故郷の松坂に戻り医師を開業するかたわら、源氏物語や日本書紀の研究に取り組む。この地は、本居宣長23才の宝暦2年(1752)3月に京に上り、儒医、堀景山の弟子になり、その家に住み込んで修行をする。さらに景山の弟子、武川幸順に医術を学び、景山の影響で古典の研究もし、江戸時代初期の学者、契沖の万葉の研究と方法は宣長に大きな影響を与えた。宣長は京で5年余り遊学をしているが、今この石碑の建つ所は、堀景山の宅跡である。

もののあはれ……と、本居宣長が平安王朝文学をこう表現した。その代表が紫式部の「源氏物語」であるという。

「もののあはれ」を言葉で表すのは難しい。

心情の奥に訴え掛けられているような、非日常の出来事(もの)が人の琴線に触れるような、感情を云うのであろうか。

また宣長はこんな歌も詠んでいる。

『敷島の 大和心を 人問はば
         朝日に匂ふ 山桜花』

敷島は大和に掛る枕詞で意味はなく「大和心とは、朝日に照らされて満開に咲き誇った、山桜の花である」

この歌が知られているのは、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)10月に日本海軍最初の神風特別攻撃隊が編成され、その名に、

「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と付けられ、以降終戦まで特攻は続くのである。