新町通を綾小路通を越えてさらに北へ歩くと、もうすぐ四条通だという西側の民家の前に建つのが「幸野楳嶺生誕地」の石碑。ここが幸野楳嶺(こうの ばいれい)」が生れた所である。

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幸野楳嶺は江戸後期から明治の中頃までを生きた、日本画家である。

江戸末期の弘化元年(1844)に、新町通四条下るのこの辺りで、金穀貸付を営む家の四男として生れている。

日本画の円山派や四条派また南画をも学び、明治13年(1880)に田能村直入(たのむら ちょくにゅう:1814~1907)らと、京都府立画学校を設立した。

楳嶺は画家としてよりも有能な弟子を育てた人物として評価されており、その一人に、竹内栖鳳(たけうち せいほう:1864~1942)がいる。

人を育てるには長けていたようで、怒って伸びる弟子には厳しく、褒めて伸びる弟子には、下手な絵でも良い所を褒めてやり、その才能を引き出したという。