勧修寺の読み方はというと、自分は「かんしゅうじ」と読んでいたのだが、正式には「かじゅうじ」と読むらしい。

昌泰3年(900)に醍醐天皇が藤原胤子(いんし)を弔うために開いたと伝わる門跡寺院である。

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勧修寺の駒札によると、

『真言宗山階派の大本山で、平安中期の900年に醍醐天皇の母・藤原胤子(いんし)を弔うために、

胤子の母の実家である宮道家(みやじけ)邸宅を寺に改めたのが始まりといわれる。

天皇の祖父に当る藤原高藤(たかふじ)の諡(し)号をとって勧修寺と名付けられ、のちに醍醐天王の勅願寺となった。

代々法親王が入寺する門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)に兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助により再興された。

本堂は、霊元(れいげん)天皇より仮内侍所を、書院(重要文化財)と宸殿は、明正(めいしょう)天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀っている。

書院前の庭にある大きな傘を持つ燈籠は、水戸黄門で知られる水戸光圀の寄進と伝えられ、「勧修寺型燈籠」と呼ばれている。

その周りには樹齢約七百年と伝えられるハイビャクシンが植えられている。

氷室池を中心とした優美な池泉回遊式の庭園は、平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮や蓮で有名である。』

        出典:【勧修寺の駒札(京都市山科区勧修寺仁王堂町)】より