宮道神社には、宮道弥益(いやます)、列子(たまこ)を始めとして、列子の夫である藤原高藤、その子、定方、胤子ら

勧修寺ゆかりの人物が合祀されているが、三条右大臣と称された、高藤の次男、定方の歌碑が身や道神社の中に建っている。

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百人一首にも選ばれた一首は、

『名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな』

で、碑文によれば、

『小倉百人一首で有名なこの和歌は、人目を忍ぶ女性に贈った恋の歌。

「逢って寝る」という名を持っているのならば、「逢坂山のさねかづら」がツルを簡単にするすると「操る」ことができるように、

私も人に知られないであなたのもとにたやすく「来る(行く)」方法があればよいのになあ、という意味。

「逢坂山」に、「逢う」を「さねかずら」に「さね(寝)」を「くる」にさねかずらのツルを「操る」と自分が相手の許に「来る」意味をそれぞれ掛けている。

切ない恋心を掛詞を多用して見事に表現した名歌である。

作者の三条右大臣は、平安時代の歌人藤原定方(873~932)和歌のみならず管弦にも才能を発揮した貴公子で、京都の三条に屋敷を構え、右大臣に昇ったのでこう呼ばれた。

今昔物語によると父の高藤がこの辺りに鷹狩りに訪れた若き日、一夜の雨宿りをしたのが

土地の豪族宮道弥益の屋敷(後の勧修寺)であり、その縁で高藤と弥益の娘列子は結ばれた。

二人の間には、胤子、定国、そして定方が誕生。

姉の胤子は、宇多天皇の後宮に入り、醍醐天皇の生母となった。

定方にとってこの辺りは、一族繁栄のきっかけとなった両親のロマンの地であり、定方自身もこの宮道神社に合祀されている。』

                   出典:【三条右大臣歌碑】より

列子が玉の輿に乗ったことで、宮道の家は末永く栄え、その夫の藤原一門もまた栄華を手にしたのである。