八幡宮の鳥居前、大岩街道を挟んで向かいにあるのが、宮道神社である。

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宮道(みやじ)神社は勧修寺との関わりが深く、勧修寺は宇治の豪族であった宮道弥益(みやじのいやます)の屋敷を寺としたものだと言われている。

宮道弥益の娘が列子(たまこ)で、藤原高藤との間に生れた子が胤子(たねこ・いんし)であり、宇多天皇の後宮となり、醍醐天皇を産むのである。

今昔物語には、高藤と列子のことが「たまのこし」と題して描かれていて、

今は昔、時の太政大臣・藤原冬嗣の子、高藤が山科へ鷹狩りの最中に雨に降られ道に迷ったあげくに立ち寄った民家に、

列子という宮道弥益の娘を見初め、共に一夜を過ごすのだが、次の日再開を約して別れるのだが、

時を経て約束通りにそこを訪ねると、自分に似た女の子がいて、高藤は二人を屋敷に向えたという、玉の輿という話があるのだが、

後に胤子は宇多天皇の後宮となり醍醐天皇の母となるのである。藤原北家は、北家勧修寺流と称され大いに栄えたという。

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社殿前の碑文によれば、

『当社は、宇治郡を本拠とした氏族宮道氏の祖神日本武尊(やまとたけるのみこ)、その子稚武王(わかたけのおう)を祭神として、

寛平10年(898)に創祀された。宮道大明神・二所大明神とも称されている。

平安時代初期、宇治郡司・宮道弥益は、醍醐天皇の生母藤原胤子の祖父で、その邸を寺としたのが勧修寺であると伝える。

後世、宮道弥益・列子をはじめ、藤原高藤(胤子父)・定方・胤子等、勧修寺ゆかりの人々を合祀、

近辺にその遺跡もあり、醍醐天皇をめぐる人々の華やかな物語や、古代山科発展の歴史を今に伝える古社である。

高藤の後裔は、勧修寺流藤原氏として朝廷で枢要な地位を占め、また宮道氏は、武家・寺家蜷川氏としてともに繁栄、活躍した。

本殿は明治23年に再建されたものであるが、この度、この由緒ある神社が後世永く栄えんことを願い、本殿覆屋・拝殿の修復と境内の整備を行ったものである。』

                    出典:【由緒碑の碑文】より