隋心院を出て、山科から伏見に通じる大岩街道を西に、外環状線を越え、山科川を渡ると街道沿い勧修寺の南、八幡山眺望の山麓に朱塗りの鳥居が見える。ここが「八幡宮」である。



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一の鳥居をくぐり、二の鳥居から階段を登ると、八幡宮の本殿となる。通称として、勧修寺八幡宮・吉利具(きりく)八幡宮・山科八幡宮などと呼ばれているのだが、一般的に「○○八幡宮」のように、八幡宮の上に冠する名称はなく、正式名称は「八幡宮」という。



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駒札によれば、
文徳天皇の仁寿の御代、八幡山の中腹に夜毎、金色に光を放つ神木があり人々は恐れ慄いていた。それを知った文徳天皇は、この地を鎮護国家の霊場とすべく社殿を造営し、八幡大神様を勧請し仁寿3年(853)9月21日遷宮の儀を執り行なうのである。

本宮の造営は昌泰3年(900)真言宗山階派の大本山勧修寺の鎮守として奉祀されたとも云われ、その建立には醍醐天皇が(御母である藤原胤子、寛平8年(896)6月21歳で死去)皇太后を追贈また追悼を祈願するため御寄進あらせられた由緒深い歴史あるお宮さんなのである。

禄2年(1458)3月、足利将軍義政公より当宮之修復造営料として神田等御寄進があった。以後治世は麻の如く乱れ応仁元年(1467)8月、世に応仁の乱と呼ばれる大乱が洛中洛外で始まり、この兵火により末社、神宝、旧記等もことごとく焼失、幸いにして勧修寺に八幡縁起並びに相撲絵記等、貴重な古文書が残っていたので、事蹟の一端はそれによって辛うじて知る事ができる。

後に天下統一を果たした豊臣秀吉公は、当宮を崇敬するも慶長3年8月、伏見城において薨去(こうきょ)され、その遺命により豊公の御遺徳を偲んで、五大老の一人徳善院僧正前田玄以(寺社奉行)によって金燈籠一基、木造燈籠二基及び神田十二石の寄進があった。降って江戸時代に至り、元和3年(1617)8月常陸の国松岡の城主戸澤右京亮政盛公社殿を造営す。

寛永12年(1635)勧修寺大僧正寛海長吏より禁中、仙洞、国母、将軍等の奉加帳を具して当宮の屋根等の修理を行う。現本殿は元禄8年(1695)に新庄城主戸澤能登守政寔公によって再建されたものである。
境内には、醍醐天皇が身を清められた井、海軍元帥東郷平八郎が植樹した楠も残っている。
                         出典 八幡宮の由緒の駒札・説明書