醍醐寺の南門(黒門)を入ると、「醍醐の桜」京の杜プロジェクト~サクラがつなぐ架け橋、という一つのサクラの苗木がある。

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説明板によると、

『「花の醍醐」と呼ばれる桜の名所、京都・醍醐寺の桜を組織培養によりクローン増殖した桜「太閤千代しだれ」を醍醐小学校の児童の皆さんが育てました。

震災復興を祈念し、宮古市立崎山小学校と京都市立醍醐小学校に1本ずつ植樹いたします。』とある。

このサクラの苗木は、豊臣秀吉が「醍醐の花見」として盛大な花見をした時の三宝院玄関前の枝垂桜の樹勢が弱まったことから、

後世にその桜を残そうと、クローン技術を使い、保存、増殖をしたものであり、いずれこの桜の苗木が秀吉も愛でたであろう桜と同じ花を咲かせてくれるのだろう。

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秀吉の「醍醐の花見」は、慶長3年(1598)3月、秀吉の晩年に醍醐寺三宝院裏の山麓で催されたもので、

秀頼、北政所、淀殿や諸大名の女房・女中1300人が参加をしたという。

そこに招かれたのは女性ばかりで、男性は秀吉と秀頼でそこに前田利家が居ただけである。

ここで女性たちによる確執が起こるのだが、茶会の席で杯を受ける順番をめぐって競いが起るのである。

醍醐寺に向かう輿の順は、1番目に北政所、2番目に淀殿、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に側室ではない前田利家の正室・まつの順であった。

秀吉の次に北政所が杯を受けるのだが、次をめぐって、ひと騒動起るのである。

北政所の次は淀殿が当然のように杯を受けようとすると、松の丸殿が、次は自分だと割って入るのである。

正室である北政所の1番は当然だが、その次は格から言うと京極家の娘である松の丸殿が格上であり、

いかに秀頼を産んだとはいえ、格下の淀殿(織田信長の妹・市の長女)の下となるのは我慢ならなかったのであろう。

その競いを治めたのが、豊臣家とは長い付き合いのあった「まつ」で、「歳の順から言えばこの私」と杯を貰い、年の功でその場を治めたという。

そんなことがあった「大後の花見」だが、それから間もなくして秀吉は

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

の辞世を残しこの世を去るのである。