鳥羽伏見の戦いでの生き証人がもう一つ残っている。

伏見区京町3丁目、京阪本線「伏見桃山」から徒歩1分、また近鉄京都線「桃山御陵前」から歩いて2分の所にある、京料理を提供する「魚三楼」である。

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魚三楼の京町辺りもまた、薩長軍と新選組との戦いがあった所であり、魚三楼の建物は焼けずに残るのだが、その激戦の跡が魚三楼の格子に残る弾痕である。

店前の説明板によれば、

『右側、格子に数條ある痕跡は鳥羽伏見戦(1868年)の弾痕です。

幕末の慶応4年1月3日、4日に此処伏見で薩長土連合の新政府軍と幕府軍とが大激戦をくりひろげました。

世に言う鳥羽伏見の戦いです。(明治維新の最初の戦)

幕府の大政奉還の奏上、朝廷の”王制復古の令”の直後、朝廷側が決定した第15代将軍慶喜の辞官、納地(一切の官職と幕府領の返上)は、幕府を怒らせ、京へ攻め上って参りました。

新政府軍は、これを鳥羽伏見で迎え撃ち、伏見では一大市街戦が展開され、幕府軍は敗れ、淀、大阪方面へ退却しました。

この戦乱で伏見の街の南半分が戦災焼失、街は焼野原となりましたが、幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で焼失を免れました。』

                  出典:【鳥羽伏見の弾痕の説明板】より

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魚三楼は、江戸時代の明和元年(1764)に、讃岐出身の三郎兵衛が、伏見に運ばれる瀬戸内の魚や京野菜を、伏見の水を使い伏見あった徳川諸藩の屋敷に料理を納めたのが始まりという。

鳥羽伏見の戦いでは、建物は焼けずに残るのだが、これは魚三楼が薩長の台所を預かっていたゆえに、薩長がここを焼かずに残したものだと推察されるのである。

伏見にあって魚三楼は京料理の老舗として、昼限定の「花籠御膳」が5千円、夜の会席料理が1万円から3万円と、とても庶民にとっては敷居の高い店であり、帰りにかるく一杯という店ではないのである。