呉竹地蔵から南浜通を東に、京阪電車の本線を越えて左に歩いてゆくと、桃陵団地があり、その一角に建つのが「常盤御前就捕処碑」である。

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今回伏見を歩いたのは実は、この常盤御前が捕えられた地を見ようと思ったからである。

少し前に京都市北区の牛若の地に、牛若誕生と常盤御前に所縁の跡を訪ねたのだが、常盤が三人の子を連れて、

京から大和へと逃れようとした途中に捕えられたのが伏見の地だと云われ、それを示す碑が建っていることを知り、訪ねたのである。

この石碑の建立者は、陸軍大佐佐藤正武なのだが、この地が陸軍第十六師団隷下の工兵第十六大隊の衛戍地であったことからだろう。

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平治の乱で夫の源義朝が平清盛に敗れると、常盤は三人の子供を連れて大和に逃れようとする。

途中、東山の「寶樹寺」に立ち寄り、三児の成長を祈ったといい、また境内には「常盤御前雪除けの松」と呼ばれる残株があり、

常盤御前が大和へ逃れる際、この地の老松の下で、しばし雪の降るのを避けたという。

駒札によると

『清涼山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺である。昔、この地の北辺に一ノ橋と呼ばれる橋が架かっていたことから、橋詰堂とも呼ばれていたと云う。

寛永3年(1706)僧聖空によって中興され、寺名を寶樹寺と改められ現在に至っている。本堂には、本尊の阿弥陀如来立像と薬師如来坐像が安置されている。

この薬師如来坐像は、俗に「子そだて常盤薬師」と呼ばれ、常盤御前が今若、乙若、牛若の三児の生長を祈願した像と伝えられている。

また境内には「常盤御前雪除けの松」と呼ばれる残株があり、常盤御前が大和へ逃れる際、この地の老松の下で、しばし雪の降るのを避けたと伝えられている。』

                   出典:【寶樹寺の駒札】より

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常盤御前とは、絶世の美女で平安時代の末期に生きた、近衛天皇の中宮・藤原呈子の雑仕女(女性の召使)から、源義朝の愛妾になり、今若・乙若・牛若を生んだ女性である。

この寶樹寺は、平治の乱で義朝が敗死した為に三人の子供を連れ雪の降りしきる中を、京から大和(奈良)へと逃げる途中に立ち寄ったと云われ、

ここで薬師如来坐像に子の生長を祈願し、老松の下で雪除けをして、伏見の地まで来た時に、母が捕えられたと聞き、京に戻ろうとした処を、ここで捕えられたという。

京に戻ると、平清盛に子供の助命を願い出るのである。結果的に三人の子供は助命されるのだが、

この時に平清盛が常盤の色香に迷ったためだとか、男女の深い仲になることにより命が助けられたのだとか、

実しやかな説があるのだが、嫡男頼朝の助命が既に決まっており、必然的にこの三人も助命されたと思われる。

後世、薄幸の美女物語として、面白可笑しく語られたものであろうか。