松林院の一筋東の新町通には、伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう)を葬った「伏見松林院陵」がある。

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伏見宮貞成親王は、室町時代の皇族で伏見宮家3代目の当主である。

小さい頃から今出川家で育てられ、40才のときに実家の伏見宮家戻るのだが、

父・栄仁親王が薨去し、その跡を継いだ兄・治仁王も相次いで亡くなってしまい、貞成親王が後継者となるのだが、

兄を毒殺したという嫌疑が掛けられるのだが、室町幕府4代将軍・足利義持の取り成しにて助けられる。

また称光天皇の妻妾が懐妊した時にも、不義密通の疑いを掛けられ、この時も足利義持の取り成しで難を逃れている。

53才の時に、101代・称光天皇が危篤状態になると、皇族に加えられる親王宣下を受けるが、

称光天皇が快復すると、逆鱗に触れ出家を余儀なくされ、法号を道欽(どうきん)と名乗る。

称光天皇が崩御すると、道欽の子・彦仁王が即位し、102代・後花園天皇となる。

道欽は天皇の位には就かなかったが、皇位を譲ったという天皇に贈られる、太上天皇の尊号が与えられ、後々、後崇光太上天皇と称されるようになる。

また、椿葉記(ちんようき)や看聞日記(かんもんにっき)を表わし、

南北朝から室町時代にかけての朝廷や幕府の動向、世相や芸能にも巾広く紹介され、時の様相を知るのに貴重な文献である。

そんな人物が、ここ伏見松林院陵に葬られているのである。

                 参照:【Wikipedia伏見宮貞成親王】より