京阪中書島から北に、もと遊郭があった南新地の中を抜け、宇治川派流に出ると、そこに「長建寺」がある。

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長健寺は、京都市内で唯一の八臂(はっぴ)弁財天(八本の腕を備えた弁財天像、鎌倉時代後期作)を本尊とする。

元禄12年(1699)、ときの伏見奉行であった建部内匠頭政宇(たつべたくみのかみまさのき)が、中書島の復興に際し、即成就院の塔頭多聞院を当地に移し、弁財天を祀ったのが始まりという。

長健寺の祭礼である「弁天祭」は、藤森神社の「駈馬」と県神社の「梵天渡御」とともに、洛南の三大奇祭と呼ばれている。

祭礼の中心は船渡御で、神輿船・囃子船・中書島遊郭の芸妓による音曲船・篝船などが、

宇治川派流から宇治川へと繰り出し、ふたたび宇治川派流に戻るというものだったのだが、昭和26年に途絶えてしまうのである。

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長健寺の駒札によれば、

『東光山と号し、真言宗醍醐派に属する。八臂(はっぴ)弁財天を本尊とし、一般に「島の弁天さん」の名で知られており、京都で唯一の弁財天をご本尊とする珍しいお寺である。

元禄12年(1699)、伏見奉行建部内匠頭政宇(たつべたくみのかみまさのき)が、中書島を開拓するに当たり、

深草大亀谷即成就院(そくじょうじゅいん)の塔頭多聞院(たもんいん)を当地に移し、弁財天を祀ったのが当寺の起こりで、寺名は建部氏の長寿を願って名付けられた。

弁財天は、音楽をもって衆生を救う女神で、福徳・智恵・財宝をもたらす七福神の一つとして、多くの人々の信仰を集めている。

毎年7月第四日曜日の夜に行われる、洛南の三大奇祭の一つ「弁天祭」では、

かつては、淀川に神輿や篝船(かがりぶね)がくり出す舟渡御が盛大に行われていたが、淀川の河流が変わったことなどにより、昭和26年を最後に途絶えている。

現在は、弁天祭と二月の節分祭に、醍醐派修験道の最高の神髄として、柴燈(さいとう)大護摩修行が行われており、正月には、現世利益を授かるため多くの参拝者でにぎわう。

また、古銭型のお守り「宝貝守り」は、江戸時代より今に伝えられている。』

                   出典:【長建寺の駒札】より

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長健寺の山門は真言宗なのに、何故か禅宗の唐門のような異国情緒を漂わせている。

『建築学上貴重な門です。下溝の部分に対して上溝の楼閣部分がきわめて小さい。瓦も一枚ずつ小さくなっている。

軒下の棰(たるき)が、中心から放射状に出る唐様になっているのが、安定感のなかに異国情緒を強めている。

京都市内唯一の門と言われている。江戸時代の作。』

                   出典:【山門の説明板】より