京阪中書島の駅前に一つの駒札が建っていた。それによると、ここが日本最初の市電が通った所で、油掛町だったのを延伸して、この中書島が終点となったという。

駒札によれば、
『我が国最古の電車路線であった伏見線(塩小路高倉~中書島間)7.1Kmと、稲荷線(勧進橋~稲荷間)0.7Kmは、昭和45年3月31日限りをもって廃止した。
伏見線の歴史は長く、最初は京都電気鉄道株式会社の手によって、塩小路東洞院~油掛町間が、明治28年2月1日に日本初の路面電車として開通し、大正3年3月31日と同年8月25日に延長部分が開通して、中書島に達した。
一方の稲荷線は、明示38年8月4日に開通したが、両線とも大正7年7月1日に京都市が買収し、大正12年6月26日から、狭軌から広軌に変更して運転した。
この路線は、由緒ある路線だけに専用軌道区間が酒蔵の並ぶ風格のある街並を走っていて人気があった。』
出典 日本最初の市電・中書島駅の駒札

伏見の駿河屋本店の前に建つ石碑は、京都は日本で初めて、電気鉄道事業が起こった所であり、日本最初の路面電車が走ったのが、明治28年(1895)に、七条停車場(後に、京都駅前と接続)と伏見の下油掛(後の京橋)の間だったのである。
明治維新により東京に都が移り沈滞していた京都に、琵琶湖から水を引き「水運」「水道」「電力」を活用し、活力を取り戻すことを目的に、琵琶湖疎水事業が起工された。
明治23年(1890)に琵琶湖疎水が完成するが、疎水の電力を利用して、明治28年(1895)に、京都電気鉄道によって、京都と伏見の間6Kmが開業するのである。
これが我が国における、電気鉄道事業の発祥とされる。
電気鉄道事業発祥の地と刻まれた石碑には、
『明治28年2月1日京都電気鉄道株式会社は、京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側から伏見町油掛通まで、電気鉄道を我国において初めて開業した』とある。
また電車の通った油掛通は、
『通称「油懸地蔵(西岸寺)」の前、東西の通りをさし、町名としては、上・中・下の3ヶ町からなる。江戸時代、伏見港(京橋付近を中心)に近く、京・大阪へ行き交う旅人で大いに賑わっていた。
明治時代、第一銀行が京都支店に続いて中油掛町に伏見支店を開設する。
明治28年には、下油掛より京都駅まで、日本最初の電気鉄道(のちの京都市電)が営業を開始する。
この付近が物資集散地であったので、車町・塩屋町・本材木町・納屋町といった当時の繁栄ぶりを示す町名が散在しているが、大正時代に明治天皇の桃山御陵築営と共に、北一筋目の大手筋にその賑わいが移っていくことになる』
出典:【油掛通の駒札】より
京都市電は昭和53年(1978)に完全廃止となったが、この伏見線のルートを市バス「81系統」として走っている。

京都側にも、塩小路通を、京都駅を右に、京都タワーを左にみて東へと歩くと、塩小路通東洞院の南西角に建つのが「電気鉄道事業発祥地」の碑。
明治維新により東京に都が移り沈滞していた京都に、琵琶湖から水を引き「水運」「水道」「電力」を活用し、活力を取り戻すことを目的に、琵琶湖疎水事業が起工された。
明治23年(1890)に琵琶湖疎水が完成するが、疎水の電力を利用して、明治28年(1895)に、京都電気鉄道によって、七条停車場(後に、京都駅前と接続)と伏見の下油掛(後の京橋)の間6Kmが開業するのである。
これが我が国における、電気鉄道事業の発祥とされる。
その碑文によると、
『日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した。
即ち明治28年2月1日 京都電気鉄道株式会社は、東洞院通り七条下る鉄道踏切南側から 伏見下油掛通りまで 6キロの間に軌道を敷き電車の運転を始めた。
この成功を機として、我が国電気鉄道事業は漸次全国に広がり、今日の新幹線電車にまで発展することになったのである。
よってその八十周年にあたり、先人の偉業を讃えてこの記念碑を建てる。』
出典:【電気鉄道事業発祥地の碑文】より
とあり、建立者は関西の鉄道を運用する、日本国有鉄道(JR)/京都市交通局/関西電力株式会社/阪急電鉄株式会社/京阪電気鉄道株式会社
近畿日本鉄道株式会社/阪神電気鉄道株式会社/南海電気鉄道株式会社/京福電気鉄道株式会社/鉄道友の会京都支部の設立になる。
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