中書島は京阪電車の中書島駅を中心とした地域であり、四方を川(南に宇治川、三方は豪川)に囲まれた島だったのである。

昔の伏見一帯は湿地帯であったのだが、豊臣秀吉が伏見城を建て辺りを整備したことにより、発展をする。
豊臣政権が崩壊した後に荒廃するのだが、江戸時代の初めに、高瀬川が京都から伏見にひかれると、再び京の玄関口として脚光をあびるようになる。

中書島の駅前にある伏見の説明板には、
『幕末のまち伏見
寺田屋は三十石船に乗る人々が利用した船宿で、宿のすぐ目の前にある寺だ屋浜は大坂八軒家(現・天満橋付近)まで舟運で結ばれていました。
幕末の慶応2年(1866)、薩摩藩の定宿でもあった寺田屋にいた坂本龍馬を伏見奉行所配下の捕り方が襲撃しました。龍馬を暗殺しようと狙っていたと言われています。
深い傷を負いながらも、命からがら逃げた竜馬は、傷を癒すために妻となったお龍をともない三十石船に乗って、薩摩の霧島へとよどがわを下っていったのであった。
これが日本で最初の新婚旅行だといわれています。
名酒のまち伏見
かつて「伏水」と書かれた伏見は、古来から良質の水が豊富に湧き出る地。その水から造られる酒は、まろやかで口当たりがよいとされてきました。
天下を統一した豊臣秀吉は、この地に伏見城を築城。
全国から集められた大勢の大工や職人の数と比例するように、消費される酒と酒蔵は増加しました。
江戸時代前期には、伏見の酒造業者数は八十三、一万五千石余の醸造量を誇り、国内有数の産地として栄えます。
いまでは、日本全国はもちろん、世界各国でも愛されている伏見の酒。それは先人たちの絶え間ない努力と酒造りにかける熱い思いの賜物です。』
出典 伏見の説明板
酒造りと共に宇治川の伏見港があり、中書島には遊郭が設けられ、京阪電車の開通とともにますます盛んとなるのである。
昭和の初めには、帝国陸軍第16師団が伏見に置かれ、兵隊さんの遊郭としても利用されるようになるのだが、戦後の昭和33年(1958)3月に、売春防止法の施行により、遊郭としての役目を終えるのである。

長建寺にも中書島の駒札があり、中書島駅前の説明板と合せて見ると、
『中書島は秀吉が伏見城にいたころ、部下の大名「賎ケ岳の七本槍」で活躍した朝散大夫中務少輔(脇坂安治)の邸宅があった。
中務を中国風に中書とするところから、脇坂候を敬称して「中書さん」と呼んだのが地名のおこりである。
脇坂家は、播州龍野の城主で維新まで380年も続いた。ここ中書島は脇坂候下屋敷と呼んでいる。元禄7年(1694)まで存在したと伝えられている。
殿様屋敷にふさわしく松の大木が沢山繁っていたが、昭和20年(1945)戦争で手入れができず枯れてしまった。
伏見廃城後は、芦萩が生い茂る島であったが、時は変わり、
元禄12年(1699)時の伏見奉行建部内匠頭政宇(たつべ たくみのかみ まさのき)、播州林田藩窪山城主(現在の姫路市林田町)の手によって、長建寺が建立された。
彼の政策は、長建寺の門から北、宝来橋、今福橋にかけて大歓楽地とした。江戸幕府は伏見を直轄地とした。
特に、建部奉行在任15年間、正徳4年(1714)までは、伏見は大都会であった。現在の伏見の町並みは、この人のおかげである。
明治に入っても、伏見は軍人さんの町として、大正・昭和(昭和20年敗戦まで)大発展伏見市であった時代もある。
昭和の初期に、この島の周囲をめぐる豪川の半分を埋め立て、戦後に今福橋から南が埋め立てられて、島としての景観が失われた。
戦後、当地出身の小説家西口克己の小説「廓」がベストセラーになり、日活映画「無法一代」で全国に紹介された。立派な遊郭建築の建物もかなりあったが、今では解体されあとかたもなくなった。
ただ高浜虚子もこの土地の全盛時代の、昭和の初めごろ訪れ「花人の 落ち合ふ駅や 中書島」と残し、京阪本線と京阪宇治線の分岐点でもある。』
出典 中書島とは・中書島の駒札
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