伏見の宇治川派流には、明治の中頃まで伏見と大阪を運航していた十石船と三十石船が、時を経て今に蘇えっている。

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淀川の水運を発展させたのは豊臣秀吉であり、伏見と大阪の水運を大いに栄させたのだが、三十石船は徳川幕府のはじめに、伏見と大阪の間を結ぶ交通路として登場する。

米俵を三十石積めることから、三十石船と呼ばれ旅人を乗せて、伏見と大阪の間を行き来したのである。

伏見港公園にある三十石船と、その横の説明文によれば、

『淀川三十石船は、桃山時代の初期(412年前)より淀川を上下せし、宮船又は、荷物船をいう。

乗船地は、伏見京橋より、大阪天満八軒家まで運行せしものなり。

当時各船は870隻、その内三十石船は177隻、長さ56尺(17m)、幅8尺5寸(2.5m)。

お客は35名程、船頭4名、上りは一日一夜、下りは半日で運航、当時の最大の交通機関であり、

上りは綱を利用した、曳船であり船頭衆は、人間業とも思えぬ重労働であったという。

枚方の「かぎや船宿」で大休止、別の小船「くらわんか船」が近づき、酒、日用品など、三十石船の客に売りにきたり、

三十石船は一俵五斗入り(大正6年5月まで)、六十俵積載、5×60、依って三十石船と命名。

明治6、7年頃に廃船、以来平成3年まで実に124年振りに再現の運びとなり、意義深き淀川三十石船である。』

                  出典:【淀川三十石船の由来】より

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三十石船は、大阪の船着場として「八軒家・淀屋橋・東横堀川・道頓堀」とがあり、ここを朝早く出て伏見には夕方に着くという船便であった。

淀川を遡ることで、堤から綱を引き上流(伏見)へと運航したのだという。

動力もないこの時代に、船が流れに逆らって運航するということは、いかに労力が必要だったのかが分かるのである。

下りの船は、伏見の京橋を夜に出て早朝に大阪に着くというものであった。

この三十石船というと、有名なのが森の石松「三十石船のくだり」清水次郎長一家の子分の強さの順を訊ねているのだが、

すし食いねえと寿司と酒を飲ましても、一は大政、二は小政、三に桶屋の鬼吉で四、五、六と続いても石松の名が出てこない。

やっと思い出してもらえて、すし食いねえと云ったまでは良かったが、最後は喧嘩は強いが少しおばかさんという落ちでこのくだりは幕を降ろしている。

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十石の話が出てこないのだが、現在は観光船として宇治川派流を周遊しているのである。

弁天橋から船に乗り、宇治川派流を三栖閘門まで行き、三栖閘門資料館を見学し、再び乗船して弁天橋まで戻る55分の船旅である。