『三栖閘門は伏見港と宇治川を結ぶ施設として、昭和4年(1929)に造られました。 |
2つのゲートで閘室内の水位を調節し、水位の違う豪川と宇治川を連続させて、船を通す施設です。 |
昔は、たくさんの船が閘門を通って伏見と大阪の間を行き来していました。 |
現在、道路や鉄道の発達にともない、交通路としては利用されていませんが、地域との関わりが深く、歴史的にも大変貴重な施設です。』 |
出典:【昭和初期の土木遺産「三栖閘門」】より |
伏見港は、豊臣秀吉が宇治川と豪川とを結び開港されたもので、 |
江戸時代には、伏見から大坂へと、また明治時代に琵琶湖疏水が完成すると、大津から大阪までの水運が開かれる。 |
しかし、大正6年(1917)に宇治川で大洪水が起ると、その治水工事として、淀川改修増補工事が行われ、 |
そのなかで大正11年(1922)に、宇治川右岸の観月橋から三栖の間に堤防が築かれたことにより、 |
宇治川と宇治川派流(豪川)との水位差が発生し、船の運航が出来なくなってしまうのである。 |
このために、昭和4年(1929)3月に3年を掛けて造られた「三栖閘門」が完成をするのである。 |
ちなみに工事費は、30万1,241円13銭と、当時の大卒初任給が70円の時代に、莫大な費用を掛けて造られたのである。 |
しかし、その閘門も国鉄や京阪電車などの陸上交通の発展で、昭和37年(1962)に、淀川の船運がなくなるとともに、 |
宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成すると、宇治川の水位が低下してしまい、三栖閘門はその役目を終えるのである。 |
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