宇治川派流に架かる京阪電車の鉄橋を過ぎると、その先に「伏見港公園」がある。

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伏見港公園は、宇治川派流が宇治川に注ぎ込む所に造られている。

伏見の港がその役目を終えて、その跡をどう利用するかと考えた時に、

その跡地にプールやテニスコート、体育館などの施設を設け、市民に利便性を与えるのを目的として整備されたものである。

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伏見港の成り立ちについては、公園にある説明板によれば、

『伏見港・宇治川派流は、豊臣秀吉の伏見城築城・流路改修によって形成され、各時代にわたって京都・大阪を結ぶ交通の要衝として栄えた河川港である。

幕末には、寺田屋騒動や坂本龍馬の活躍などわが国の歴史の主要な舞台ともなり、

また角倉了以の高瀬川開削や近代の琵琶湖疏水開削・淀川改修などと深くかかわるなど、わが国の政治経済・土木技術史上極めて高い歴史的意義をもった地域である。

伏見港の生成(1594年頃)

秀吉は、伏見城築城の際、伏見地域を中心とする交通路の整備と水害対策を図るため、宇治川の巨椋池との分離を始めとする大規模な改修を行った。

伏見城下町形成の際造られた外堀と改修された宇治川によって、大坂との水運の拠点となる伏見港が形成されることとなった。

高瀬川の開削(1614年)

伏見城築城以前、京都の外港の役割を担っていたのは、淀や下鳥羽であったが、伏見港の開港によって、物資の流れは伏見地域の方に移った。

角倉了以は、京都と大坂を水運で連結することを目的として、伏見から京都市中に至る水路である高瀬側を開削した。

この高瀬川開削は伏見地域がますます港湾都市として発展する基礎となるのであった。

港湾都市の発展(江戸期)

京都・大坂の水運の拠点としての港があったことと伏見を拠点として京都・奈良・大津等にいたる陸路が整備されたこと、

そして江戸幕府が伏見を伝馬所(公事方の書類等を運ぶための馬の乗継ぎ場所)として位置づけたため、港湾都市として発展した。

伏見伝馬所は伝馬100匹を常置する宿駅で参勤交替の西国大名たちは、必ず伏見に立ち寄ることになった。

このため、伏見には4つの本陣と脇本陣があり、大名屋敷もいくつか置かれたのである。また、同業者集団(仲間)を見ると、運送・問屋・旅宿に関する仲間が多くあった。

天保期(19世紀前半)には、車偕3組・車両数172両・旅籠屋42軒・水上仲士42人・舟大工12軒を数えたと言われる。

さらに、淀川を運行する船は享保年間(1700年頃)には、過書船742隻・淀船507隻・伏見船200隻・高瀬舟128隻をかぞえたといわれる。

こうして、伏見の町は、当時の大都市であった京都を背後に持ち、江戸末期には人口4万人を擁する日本最大の内陸港湾都市として栄えたのである。』

                 出典:【伏見港の歴史の説明板】より