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旧高瀬川の小さな流れに沿って南に歩くと、高瀬川が宇治川派流に注ぎ込む。そこにあるのが「角倉了以水利紀功碑」である。

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角倉了以(1554~1614)が、慶長16年(1611)に、京の二条から鴨川の水を、伏見まで流す高瀬川を開削し、京都と伏見の水運を開いたのである。

この了以の功績を顕彰せんが為に、ここに「角倉了以水利紀功碑」が建てられた。

角倉了以水利紀功碑に書かれた碑文は漢文であり、とてもその意を解釈することはできないのだが、その意味を口語体に訳してくれたものがあり、それを意訳してみると、

『聖人は徳を後世に残し、その次の賢人は功を後世に残すと言うが、徳や功を立てることは容易ではない。

角倉了以は名門の家に生れ、洛西の富豪であり、経済に明るく,河川や土地の測量に長じていた。深い川を浅くし、水路を開き船が通行できるようにした。

豊臣氏が方広寺大仏殿を再建するとき,資材の運送に困ったが、了以は鴨川に船を通し巨大な材木を運ぶことを提案し、この運送を一見した人はみな偉業だと感じた。

さらに慶長16年徳川幕府の認可を受け、鴨川に水路を開き、北は二条から南は伏見に至る長さ2754丈、幅21尺の水路を開いた。

京都には、東からは逢坂山を越え、西からは高瀬川を利用した。逢坂山経由はけわしい山道で牛や車は苦しめられた。

高瀬川は平坦で利便性がよく、高瀬舟は川にひしめきあった。もし一日この川を舟が通れなくなったら京都の物価は高騰するほどであった。

江戸幕府はその功績により,将軍謁見の特典を与え,角倉家に高瀬川の管理を委託し、これが三百年続き、同家はますます栄えたのであった。

明治維新で角倉家は職を免じられたが、依然として高瀬川は廃止されることはなかった。

その業は京都の河川輸送の中心であり、これに頼り生活する者は数百人を下ず、まさに「同時代の人からは偉業をたたえられ、しかも後世の人には恩恵を与えるような事業」であった。

京都は了以翁の餘沢をこうむるところが大きい。また高瀬船業者も時勢が変わってもよく了以の恩を忘れず、

このたび碑を建てるに至ったのはめでたいことである。この故にあえて碑文を作るものである。

          参照:【京都市角倉了以水利紀功碑の碑分の大意】より

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またここは、豪川と旧高瀬川が合流する所でもあり、豪川に架かる「出合橋」。この宇治川派流を十石船が巡っているのである。