京橋から竹田街道を南に歩くと、京都伏見土木事務所の前に「伏見長州藩邸跡」の石碑」が建っている。

 クリックで大きくなります
寺田屋からも徒歩3分の所だが、ここも禁門の変(蛤御門の変)で戦いがあった所で、長州藩家老の福原越後が500の手勢を連れ、京都御所へと向かうのだが、

途中、竹田街道の稲荷付近で、幕府軍に行く手を阻まれ伏見の藩邸に戻るのだが、伏見藩邸は幕府軍の砲撃に合い焼失をする。

碑分によれば、

『長州藩の藩祖は毛利輝元でその父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。その領地は中国地方の大半を占めていました。

伏見城造営当初の藩邸は「豊公伏見ノ図」や中井家所蔵の「伏見城絵図」によれば城下の西の端、大名屋敷の一角と毛利橋の東に「毛利長門守」の屋敷が記されています。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の大将として参戦して敗戦。徳川家康は戦争責任を問い輝元を隠居させ、その子、秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えました。

江戸時代中期の元禄12(1699)年の「御香宮文書」には中書島の新地開発を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられます。

この辺りと三栖向町の間には船大工町があり、船や船具製造に従事する人びとが暮らしていました。

屋敷地は通りに面して町家が建ち並び、藩邸がその奥にあるような形態をしていました。

幕末の元治元(1864)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。

その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。

福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、

彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。』

                  出典:【伏見長州藩邸跡の碑文より

 クリックで大きくなります
また伏見には幕末を動かした諸藩の藩邸があり、京都市伏見区南浜町の月桂冠情報センターの敷地内に建つのが「伏見土佐藩邸跡」の石碑で、この辺りに土佐藩邸があった。

鳥羽伏見の戦いでは、山内容堂は参戦を禁じたのだが、板垣退助の密命で、一部のものがこの戦いに官軍として加わっている。

 クリックで大きくなります
伏見御堂は、慶長年間(1596~1615年)東本願寺の第12代法主・教如の創建になる。

幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが起こる前日に、会津藩の先鋒隊200名がここに陣どったところから、「会津藩駐屯地跡」の碑がここに建てられた。