また伏見の豪川に架かる「京橋」の辺りは、鳥羽伏見の戦いで、会津藩の先鋒がここに上陸をし、薩長軍と戦った所でもある。

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京橋の謂われを駒札に見ると、

『この橋を京橋という。橋下の流れは宇治川に注ぎ、淀川に通じている。

淀川の水運は、古くは京・大阪を結び、また琵琶湖を経て、遠く東海道・北陸とも連絡する交通上の大動脈であったが、慶長年間(1596~1615)、

角倉了以が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は旅人や貨物を輸送する船着場として大いに栄えた。

淀川を上り下りして貨客を運んだ三十石船や高瀬川を往来した高瀬舟、

更に宇治川を下ってきた柴舟(しばぶね)などがこの辺りにひしめき合い、数十軒の船宿も立ち並んで、昼夜の別なく雑踏を極めた。

しかし、明治初年、京都・大阪間に鉄道が開通するに至って次第にさびれ、今は往時の盛観は見られないが、

ここから東約50メートルの所にある旅館「寺田屋」がわずかに昔の船宿の名残りをとどめている。』

                    出典:【京橋駒札】より

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そしてまた、この辺りは鳥羽伏見の戦いが始まる1日前に、会津藩兵が上陸をし、薩摩の軍と激しい戦いを繰り広げた所でもあった。

伏見口の戦い激戦地跡の碑分によれば、

『江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝船など、千数百隻にもおよぶ舟運で賑わった伏見港の中心が、この京橋付近です。

角倉了以による高瀬川の開削で、洛中と伏見が舟運で結ばれるとさらに発展しました。

ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には、大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。

江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、

前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物で賑わっていました。

橋の南詰には三十石船のように運上金によって、幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。

幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここに伏見御堂を宿陣として戦いました。

伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。』とある。

                 出典:【伏見口の戦い激戦地跡の碑分より

鳥羽伏見の戦いは、鳥羽の小枝橋を通せ、通さぬとの小競り合いから、薩摩軍と徳川軍との衝突が起り、鳥羽伏見の戦いが開かれるのだが、

この時、薩軍5,000人、徳川軍15,000人と数の上では、薩軍を圧倒しているのだが、薩軍の新鋭兵器(鉄砲)と戦術に対し、なす術もなく敗れさっている。

徳川方には優秀な指揮官もなく、近代戦を戦う戦略もなく、ただひたすら白刃突撃を繰り返すのみで、薩軍の弾幕射撃によって敗れ去るのである。